小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

組織とリーダー

番外編5「激励」「一念」「慈悲」

『新・人間革命』に学ぶ 番外編⑤

「新・人間革命」につづられた名言をテーマごとに紹介

テーマ「希望」
山本伸一は、1979年(昭和54年)の聖教新聞に、「希望の暁鐘」と題する一文を起稿した。
「御書にいわく『所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり』と。またいわく『歓喜とは善悪共に歓喜なり』と。すなわち、苦しみや悲しみさえ、希望と喜びに変えゆくのが、仏法の偉大な功力なのであります。苦楽は所詮一如であり、むしろ苦難の中にこそ希望と歓喜を見いだしていける人が、厳たる人生の勝利者なのであります」
(第29巻「清新」の章、P235~236)


テーマ「スピード」
学会勝利の源泉はスピードにあった。たとえば、本部に会員の皆さんが報告に来られる。私は、伝言を託すなど、すぐになんらかの行動を起こしてきた。これがリーダーの鉄則です。この迅速な反応、行動がある限り、学会は発展していくし、君たちも、そうすることによって、成長することができる。それがなくなれば、みんなは不安になるし、やがて不満を感じるようになってしまうものです。(中略)いつも真っ先に立ち上がるのが青年部ではないか」(第5巻「勝利」の章、P261~262)


テーマ「激励」
「時には、共に涙し、共に御書を拝し、共に祈り、粘り強く激励の対話を重ね抜いてきました。そのなかで、多くの方々が信心で立ち上がり、苦悩を克服してきたんです。友を励ましてきた人は、苦悩を分かち合った分だけ、喜びも分かち合い、信心の確信も増し、大きな功徳を実感しています。

一方、励まされた人にとって、最も苦しかった時に、同苦して自分を激励・指導してくれた同志の存在は、無二の友であり、終生、大恩の人となっています。

人間にとって今生の最高最大の財産は、どれだけの人と苦労を共にして励まし、信心を奮い立たせてきたかという体験なんです。したがって、何人もの、いや、何十人、何百人もの人から、『私は、一緒に悩み、祈ってくれたあの人のことを、生涯、忘れない』『あの人がいたから、今の私の幸せがある』と言われる人になることです」(第27巻「求道」の章、P358)


テーマ「一念」
仏の『毎自作是念』は一切衆生の成仏にあります。仏は、すべての人びとを幸福にすることを、常に念じ、考えておられる。私どもも、奥底の一念に、常に何があるのか、何を思い、願い、祈っているのかが大事になるんです。そこに、自分の境涯が如実に現れます。御本仏・日蓮大聖人の久遠の弟子である私たちは、大聖人の大願である広宣流布を、全民衆の幸せを、わが一念とし、わが使命と定めようではありませんか。そして、日々、久遠の誓いに立ち返り、広布を願い、祈り、行動する一人ひとりであってください」(第26巻「法旗」の章、P113~114)


テーマ「慈悲」
伸一は、この「健康」「青春」「福運」「知性」「情熱」「信念」「勝利」の七項目を人間革命の指標として示したあと、さらに、これらを包括し、仏法者の規範として確立されなければならないものこそ、「慈悲」であると訴えた。伸一は、慈悲について戸田城聖の指導を通して論じ、「私たち凡夫の場合は、勇気をもって行動することが慈悲に変わるのである」と力説。そして、慈悲と勇気の実践である広宣流布に生き抜くことの大切さ、尊さを訴えたのである。(第19巻「陽光」の章、P231)


テーマ「創意工夫」
どんなに多忙でも、人を励まそうという強い一念があれば、さまざまな工夫が生まれる。伸一は、会合に出席しても、指導する時間があまりとれない時には、懸命に学会歌の指揮を執り、激励したこともあった。全精魂を注いで、皆と万歳を三唱して、励ましたこともある。
それは、“今を逃したら、もう、励ます機会はないかもしれない。最愛の同志を、あの人を、この人を、断じて励ますのだ!”という、伸一の一念の発露であった。
心という泉が、必死さ、懸命さに満たされていれば、創意工夫の清冽なる水は、ほとばしり続ける。
(第24巻「灯台」の章、P352)


さんふらわ7号で訪れた四国の同志

『新・人間革命』第30巻(上) 雌伏の章 206p~

四国のメンバーは、神奈川文化会館の館内や、会館の敷地内にある戸田平和記念館を見学した。同記念館は、前年の1979年(昭和54年)8月にオープンしており、通称「イギリス7番館」といわれていた、歴史ある赤レンガ造りの建物を、補修・改修したものである。

第二代会長・戸田城聖が、「原水爆禁止宣言」を発表したことから、その精神と意義をとどめるとともに、反戦・平和の資料を展示し、広く市民に公開するために誕生した記念館であった。四国の同志は、展示品を鑑賞し、テープを聴き、戦争の悲惨さを再確認しただけでなく創価学会が世界平和の大潮流を巻き起こしていることを実感した。そして、平和建設への誓いを新たにしたのである。

伸一は、何人かの同志に、次々と声をかけていった。そして、四国の壮年幹部らに語り始めた。「幹部は、決して威張ったり、人を叱ったりしてはいけないよ。戸田先生は、弟子を叱られることがあったが、そこには、深い意味がありました。第一に、広宣流布のために弟子を訓練し、自分と同じ境涯に高め、一切を託そうとされる場合です。

第二に、魔に信心を妨げられている人を、どうしても立ち上がらせたいという時に、その魔を打ち破るために、叱られた。人間には、直情径行であるために皆と調和できない人や、自滅的な考えに陥ってしまう人、困難を避けて通ろうとする人、いざとなると責任転換をしたり、ごまかそうとしたりする人もいる。

そうした傾向性や、その背後に潜む弱さ、ずるさ、臆病が一因となり、魔となって、自身の信心の成長を妨げ、さらに幸福への道を誤らせてしまう。ゆえに戸田先生は、その一凶を自覚させ、断ち切るために、叱られることがありました。

第三に、多くの人びとに迷惑をかけ、広宣流布の団結を乱している時などは、本人のため、皆のために、それをやめさせようとして叱ることがありました。つまり、いかなる場合も戸田先生の一念の奥底にあるのは、大慈大悲でした。

それもわからず、言動の一端を真似て、同志を叱るようなことがあっては絶対にならないし、どんな幹部にもそんな権利はありません。誤りを正さなければならない場合でも、諄々と話していけばよいことです」

“私たちは、断じて学会精神を継承していきます。いかなる事態になろうが、広宣流布の道を開き抜いていきます。四国は負けません。創価の勝利の旗を翻してまいります!”求道の思い熱き同志の目に、涙が光った。

「さんふらわあ7」号の出航を告げる汽笛が夜の海に響いた。船は静かに離岸し始めた。文化会館の明かりが一斉に消えた。上層階の窓に、幾つもの小さな光が揺れている。「今、山本先生と奥様が、最上階で懐中電灯を振って,見送ってくださっています」伸一たちは、船が見えなくなるまで、いつまでも、いつまでも懐中電灯振り続けた。

1か月後の2月17日、鹿児島県奄美大島地域本部の女子部員86人が、山本伸一がいた東京・立川文化会館を訪問したのである。かつて、奄美大島の一部の地域で、学会員への激しい迫害事件があった。村の有力者らが御本尊を没収したり、学会員の働き場所を奪ったりするなどの仕打ちが続いた。

生活必需品も売ってもらえなかった。車を連ねて学会排斥のデモが行われたこともあった。奄美の女子部員は、少女時代にそうした逆風のなかで、父や母たちが悔し涙を堪え、自他共の幸せを願って、懸命に弘教に励む姿を目の当たりにしてきた。

奄美大島地域本部の女子部長である長田麗も、その一人であった。長田は、宗門による学会批判が激しさを増した時、地元寺院の住職の妻から呼び出され、学会の悪口を聞かされ、宗門につくのか、学会につくのかを迫られた。

彼女は、毅然としていった。「私たちに信心を教えてくれたのは学会です。私たちを励ましてくれたのも、山本先生であり、学会です。宗門ではありません!」奄美に脈打つ、「スットゴレ!」(負けてたまるか)の敢闘精神は、時代を担う若き世代に、しっかりと受け継がれていたのだ。

長田は、皆に訴えた。「今こそ私たちは、創価の勝利を打ち立てて、東京へ、創価女子会館へ、山本先生のもとへ行きましょう!」彼女は、女子部員の激励に、島から島へと走った。どんなに、地理的に遠い地域にいても、広布に進む師弟に心の距離はない。広大な海も、峨々たる山々も、師弟の心を引き離すことはできなかった。

太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
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青森・秋田への指導

『新・人間革命』第29巻 清新の章 283p~

青森・秋田合同の代表幹部会は、1月14日の午後1時半から青森文化会館で開催された。参加者は、降りしきる雪のなか、頬を紅潮させ、喜々として集って来た。

伸一は、皆の日ごろの苦労が吹き飛び、体が軽くなるような、楽しく、愉快な、人間味あふれる会合にしたかったのである。形式に則ることは、もちろん必要である。しかし、形式だけに寄りかかってしまうと、型通りにやっていればよいという考えに陥ってしまい、工夫も怠り、マンネリ化が始まる。生き生きと広宣流布の運動を進めていくには、日々絶えざる確信が必要である。

伸一は、この日、「信心」と「実践」の関係について語っていった。「正しい仏道修行には、『信』と『行』の両方が、正しく備わっていなければなりません。その実践は、大聖人が『行学は信心よりをこるべく候』と仰せのように、『行』も『学』すなわち教学の研鑽も、御本尊への強い『信』から出発するものでなければならない。『信』なき実践は、一生懸命に動いていても、形式的なものになり、惰性化し、次第に歓喜も失われていってしまいます。

ともあれ、純粋にして強き信心は、おのずから、果敢にして忍耐強い実践につながっていく。『我もいたし人をも教化候へ』の御請訓のごとく、自行化他にわたる実践を展開し、この東北の天地から、新しい広布の光を放っていただきたいのであります」

伸一は、代表幹部会に続いて、秋田県の代表との懇談会や弘前大学会のメンバーと記念撮影に臨み、さらに、青森文化会館のある地元・大野支部の激励会に出席した。支部長の中沢正太郎と支部婦人部長で彼の妻である美代子が、声をそろえてあいさつした。

二人は7年間にわたって、この大野支部の支部長婦人部長を務めてきた。「支部長も、婦人部長も、いつ行っても唱題していますね」と評判になった。「何かあると一緒に悩んでくれる」ーーそれが学会の世界である。支部のメンバーも、夫妻の個性や性格をよく理解し、力を合わせ、支え合って、支部の建設に取り組んできた。一人を大切にするリーダーの祈りと行動、皆の団結が、模範の支部とつくり上げてきたのだ。

青森支部の初代支部長の金森夫妻は、自分たちのことよりも、常に同志のことを第一に考える人であった。諸会合の会場として自宅を提供するため、皆が集まりやすいようにと、わざわざ駅の近くに家を構えた。困っている人がいると聞けば、すぐに飛んでいって励ました。

”歩いた分だけ、広宣流布の道が広がる。人を励ました数だけ、人材の花が咲く、動いた分だけ、福運となる”と自分に言い聞かせながら、青森の大地に、広布開拓のクワを振るい続けたのである。

伸一は、深い感慨を込めて語った。「青森支部の誕生から、既に満20年が過ぎた。その間の青森広布の伸展は目覚ましいものがある。それは、金木夫妻のように、ただただ広宣流布のために、一切をなげうつ思いで、懸命に走り抜いてきた方々がいるからだ。

その決意と実践がなければ、広宣流布の前進はない。いよいよ学会は、これから広宣流布の総仕上げの時代に入っていく。それは東北の時代が到来したということだ。地道に、何があっても信念を曲げない、青森の“じょっぱり魂”が光輝く時代だよ」

「青森の青は、“青年の青”だ!青森の森は、“人材の森”だ!どうか青森青年部は、広宣流布を担い立つ人材の森に育ってほしい。21世紀の学会の柱は、青森の君たちだよ」

創価学会の信心は、法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の御本尊への絶対の確信から始まる。そして、地涌の菩薩の使命を自覚し、死身弘法の決意に立って、日蓮大聖人の民衆救済の大法を広宣流布していく、仏意仏勅の団体が創価学会である。

ゆえに、もしも、御本尊への大確信を失うならば、創価の信心の火は消え失せてしまう。また、折伏・弘教の実践がなくなれば、学会の魂は絶え果てる。したがって、この二つを受け継ぐなかにこそ、創価の師弟があり、後継の正道があるのだ。

あの宗門が、戦時中、権力に迎合する一方で、権威の維持に汲々とし、不敗堕落していったのも、御本尊への絶対の確信なきゆえであり、宗開両祖の精神である。広宣流布の大願に生きることを忘れたからである。

太字は 『新・人間革命』第29より 抜粋
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10年前の約束

『新・人間革命』第29巻 清新の章 267p~



津浪ですべてを失い、漁業の再開を断念した人もいた。しかし、村川は、学会員の自分が、
集落の復興の先頭に立とうと決意し、共同での養殖作業を進め、震災の翌々年1月に
新しい漁船を購入した。彼は、地域復興の推進力となっていったのだ。


自ら歴史を創ろうとする人は、いかなる試練にもたじろぐことはない。苦境を舞台に、人生の
壮大なドラマを作り上げていく。東日本大震災では、会館への被災者受け入れは、42会館役5千人
となった。学会の災害対策本部として提供した主な支援物資は、飲料、食料品、医薬品、衣類、
寝具など、約64万2千点。動員したボランティアは、延べ2万5百人に上った。


東北の同志は立正安国の法理に照らし、「結句は勝負を決せざらん外は此の災難止み難かるべし」
との御文を噛み締め、広宣流布への決意を新たにするのであった。


山本伸一の広布旅は続いた。新しい未来を開くために。皆をねぎらい、青森へ向かった。
岩手飯岡駅を通過する時、十数人の人たちがホームで盛んに手を振っているのが見えた。
「学会員だね。寒いのに見送りに来てくれて本当に申し訳ないな。


どんな組織でもそうだが、物事を企画、立案し、指導していく幹部が、最前線で活動する
現場の人たちの気持ちや実態がわからなければ、計画は机上の空論となり、現実に即さないものに
なってしまう。そうなれば、既に官僚主義なんだ。


だから学会のリーダーは、絶えず第一線に身を置き、皆の現実と、苦闘、努力を肌で感じ、
共有していくことだ。そして、号令や命令で人を動かすのではなく、自らの率先垂範の行動と対話で、
皆を啓発していくんだよ。それが、広宣流布の指導者だ」


青森県に入り、八戸、三沢を経たあと、長いトンネルに入った。闇を抜けた時、息をのんだ。
一面の冬景色であった。伸一は、同行メンバーに呼びかけた。「みんなで詩を作ろう。
詩歌を詠むには、“発見”が必要だ。つまり、それによって、洞察力を磨いていくこともできる」
皆、慌てて詩や歌作りに取り組んだ。彼は、皆が詩歌を作ることを通して、風雪のなかで
戦い生きる同志の苦闘を、わが苦とする決意を固めてほしかったのである。


青森文化会館に着くと「さあ、ここから青森の新しい歴史の幕を開こう!」そして、
休む間もなく懇談会に臨んだ。


10年前、下北半島の大湊で行われた中等部員会に集った3,40人のメンバーが 写真と、
決意文が、伸一のもとへ郵送されてきた。伸一は、激励の本に、10年後に必ず会おうと認めて
贈った。その代表の青年たちと、当時の中等部の担当者であった婦人が訪ねてきたのである。


木森正志は、創価大学に学び、4月から東京の大手企業に就職することが決まっていた。家が
経済的に大変ななか、下北地方で初の創大生となった。土木工事等、アルバイトをしながらの
学生生活であった。だが、“伸一のもとに集う10年後”をめざして、木森は、歯を
食いしばりながら、自身への挑戦を続けてきたのだ。勝利者とは、自分に打ち勝つ、忍耐の人である。
自らの誓いを果たし抜いた人である。


メンバーは、それぞれが伸一との誓いを胸に、各地で人生の勝利劇を演じていった。始まりは、
一葉の写真である。誰かに言われたからではなく、皆が誓いを込めて、あの写真を撮り、自主的に
伸一に送った。決して、激励を期待してのことではない。既に一葉の写真を送った時から、
メンバーは、己心の伸一と共に、勝利の大海原に船出していたのだ。


師弟とは物理的な触れ合いのなかにあるのではない。心に師をいだき、その師に誓い、
それを成就しようとする、必死の精進と闘争のなかにこそある。そこに人生の開花もある。

太字は 『新・人間革命』第29より 抜粋
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東日本大震災での献身

『新・人間革命』第29巻 清新の章 242p~

2011年3月11日、大地震、大津波が発生した当時、元藤は、学会にあって、大槌、釜石、大船渡、陸前高田など被害の激しかった地域の県長であった。

自宅も、家族も無事であった。御本尊に、ひたすら感謝した。しかし、安堵に浸る間もなく、妻の福代と共に、会員の安否確認に回るため、家を出た。街は一変していた。一面、瓦礫に埋まり、廃墟と化し、市街地に向かう道もなくなっていた。

でも、なんとしても同志に会わなければならない。山中を歩いた。藪が生い茂る獣道を進んだ。市の対策本部に着いた。各避難所の収容者名簿を見て、学会員の名前を確認し、避難所に向かった。何人もの学会員と会うことができた。元藤は、過酷すぎる現実に言葉を失った。ただ、手を握り、共に涙することしかできなかった。

被災者でありながら人びとの面倒をみて、忙しく立ち働く学会員もいた。避難所を後にした元藤は、地域の消防団の活動に入った。救援物資の運搬など、身を粉にして働いた。たくさんの同志が津波で家を流された。だが、そのなかで学会員は、避難所の清掃作業や炊き出しなど、人びとのために勇んで献身していった。

人の幸福を願って行動するなかに、自分の幸せもあるという、仏法の共生の哲学が脈動していたのだ。こうした同志のなかには、元藤に限らず、1979年(昭和54年)1月、水沢文化会館で山本伸一と出会いを結んだ人たちが少なくなかったのである。

伸一は、甚大な被害であったことを知ると、胸を痛めながら被災地の友に伝言した。「大切な大切な皆様方に、仏天の加護が厳然と現れるよう、妻と強盛に題目を送り続けております。日蓮大聖人は『妙とは蘇生の義なり』と御断言であります。今こそ不屈の信力、行力を奮い起こし、偉大なる仏力、法力を湧き出だしながら、この苦難を、断じて乗り越えていこうではありませんか」

3月16日の「聖教新聞」には、被災地の同志に送った、山本伸一のメッセージが掲載された。「御書には、災害に遭っても『心を破る能わず』と厳然と示されています。『心の財』だけは絶対に壊されません。いかなる苦難も、永遠に幸福になるための試練であります。

すべてを断固と『変毒為薬』できるのが、この仏法であり、信心であります。(中略)断じて負けるな!勇気を持て!希望を持て!」

岩手に限らず、宮城、福島など、各被災地での学会員の奮闘、また、阪神・淡路大震災を乗り越えてきた兵庫など関西をはじめ、全国の同志の支援は、人間の強き絆の証明として永遠不滅の光を放つものとなろう。

東北の青年たちは、各地で「自転車レスQ隊」「片付け隊」「かたし隊」などを結成。清掃や後片付け、物資の配達などを買って出た。調理師や理容師、美容師などの技術を生かし、ボランティアとして貢献した壮年、婦人もいる。皆、自らも被災者である。

津波によって瓦礫に覆われた宮城県石巻では、男子部員が、“なんとしても、皆を元気づけたい。生きる勇気を送りたい”と決意した。そして「がんばろう!石巻」という立て1.8メートル、横10.8メートルの大看板を作った。彼は、自分の家も流され、雪の降るなか、松の木にしがみついて一夜を明かして、生き抜いた青年である。この看板は、やがて東北復興のシンボルとなった。

“負けてたまっか”ーーこの心意気が学会魂だ!苦難の嵐が猛れば猛るほど、勇敢に、忍耐強く、挑み戦うのが創価の師子だ!

被害の大きかった岩手県大船渡市にある県立大船渡病院に一人の臨床研修医がいた。27歳の塩田健夫である。必死で診療にあたった。疲労は限界に達していた。しかし、自分に言い聞かせた。“この時にめぐり合わせたことは、決して偶然ではない。このために、ぼくはいる!今、頑張らずして、どこで頑張るというのだ!”人生には、正念場がある。その時に、最高の力を発揮できる人こそが勝利者となる。

高田市で養殖漁業を営んできた村川良彦は、ローンで購入した最新設備の漁船を津波で失った。彼には、震災の日の早朝、収穫した1トンのワカメがあった。普段の何倍もの高値がつく。ところが彼らは、そのワカメを惜しげもなく近隣に配り始めた。人は食べれば元気がでる。今大事なのは、みんなが元気になることだーーと考えての決断だった。


太字は 『新・人間革命』第29より 抜粋
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