小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

新・人間革命  第2巻

幸福論

『新・人間革命』第2巻 民衆の旗 p268~


幸福についてさまざまな哲学者や思想家が論じているが、
それを読んだからといって、絶対に自分も幸福になり、
人をも幸福にできるかというと、そうは言い切れない。


日蓮大聖人のみが、万人に幸福の道を具体的に書かれたのである。


幸福はどこにあるのか。それは、決して彼方に、あるのではない。
人間の胸中に、自身の生命の中にこそあるのだ。


金やモノを手に入れることによって得られる幸福もある。
しかし、それはつかの間の幸福にすぎない。
戸田は、それを「相対的幸福」と呼んだ。


そして、たとえ、人生の試練や苦難はあっても、それさえも楽しみとし、
生きていること自体が幸福であるという境涯を、「絶対的幸福」としたのである。


この悠々たる大境涯を確立するには、いかなる環境にも負けることのない、
強い生命力が必要となる。


その生命力は、自身の胸中に内在しているものであり、それを、
いかにして引き出すかを説いたのが仏法である。


ある哲学者は、“人を幸福にすることが、一番確かな幸福である”旨の言葉を残している。


弘教には歓喜があり生命の最高の充実があります。


『私には折伏なんてできません』という人もいるかもしれませんが、それでも構いません。

牧口先生の時代も、戸田先生の時代も、学会では、折伏をしてくださいなどと、
お願いしたことは、ただの一度もありません。


大聖人が折伏をすれば宿命を転換し、成仏できると、お約束なさっている。
ですから、自分の宿命の転換のため、幸福のためにやろうというのです。


布教していくということは、自身を高める、人間としての最高の慈愛の修行であるとともに、
人びとを幸福と平和へと導きゆく、最極の友情の証なんです。


大切なことは、“あの人がかわいそうだ。幸福になってほしい”という心で、
周囲の人に、折に触れ、仏法を語り抜いていくことです。今は信心しなくとも、
こちらの強い一念と友情があれば、やがて、必ず仏法に目覚める時が来ます。


思うように活動に参加できない人もいるでしょう。・・・
私たちは、おおらかな気持ちで、麗しい同志愛を育みながら、
幸福の道を進んでまいろうではありませんか。


伸一が心を砕いていたのは、その弘教の波に乗り切れずにいる友であった。
彼のまなざしは、常に最も苦しみ悩む人に注がれていたのである。



太字は 『新・人間革命』第2巻より抜粋

信心の血脈

『新・人間革命』第2巻 勇舞の章 p256~


信心の血脈とは何か
御聖訓には
「異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」
と 仰せである。


「南無妙法蓮華経と唱え奉る」とは、自行化他にわたる題目であることはいうまでもない。
つまり、広宣流布に向かって、心を一つにして「行動」する団結のなかに、
生死一大事の血脈、すなわち「信心の血脈」が流れ通うとの御教示である。


創価学会は、それを実践してきた唯一の教団であることを、日淳は最も深く、
正確に 認識していた。


信心の一念は、必ず「行動」「実践」となって表れるものだ。


根本の師たる大聖人のご指南通りの信心と、不惜身命の実践こそが、
後継の正師たる要件といえよう。それがなければ、法主、管長といっても、
仏法の本義とはかけ離れた、宗内政治の頭目にすぎず、
そこには「信心の血脈」など決してありはしない。


日蓮大聖人滅後、六百数十年を経て、軍部政府の弾圧に宗門が屈した時、
日蓮大聖人の仰せのままに、正法流布に決然と立ち上がったのが、
初代会長牧口常三郎であった。


弾圧を恐れ、権力に迎合して勤行の際の御観念文を改竄し、
御書の一部を削除し、学会に神札を受けよと迫る、
臆病な宗門に、師を見いだすことなど、できようはずがなかった。


日淳は、牧口を語るに「生来全く法華的の方であった」「生来仏の使いであられた」と
称賛を惜しまなかった。


まさに、現代における仏法の正師こそ、初代会長牧口常三郎であった。


二代会長戸田城聖も 牧口も 不惜身命の実践をもって 広宣流布に生涯を捧げた。
その行動のなかにこそ、大聖人の「信心の血脈」があり、
創価学会の師弟の脈動がある。




太字は 『新・人間革命』第2巻より抜粋

登山会の開始

『新・人間革命』第2巻 勇舞の章 p247~


11月16日 山本伸一は、幹部200名とともに 総本山65世法主日淳の
一周忌法要に 参列するため 総本山に向かった。


死期を悟った 日淳は 16日午前零時過ぎから 相承の儀を執り行った。
この日の午後 伸一は 日淳から細井総監に 相承したことを告げられる。


日淳は 戸田城聖との思いを語る。
「戸田先生には、また創価学会には 大恩があるのです。・・・
登山会もそうでした。そのおかげで、総本山は 観光地化せずにすんだのです」


戦後、宗門は 農地改革によって土地の多くを失い、財政難に陥っていた。
その窮地を脱するために、総本山大石寺を観光地にしようという話が持ち上がったのである。


この計画を聞き「総本山を絶対に観光地にしてはならない」と、
断固、反対したのが戸田城聖だった。
彼は、日興上人の「謗法の供養を請く可からざる事」との御遺誡のうえから、
なんとしても、これに同意するわけにはいかなかった。


大御本尊は、どこまでも信仰の根本として尊敬すべき対象でなければならない。
それを、仮にも、信仰の寸心さえない物見遊山の観光客に、
金のために拝観させるようなことにでもなれば、
日蓮大聖人の御精神を踏みにじることになってしまう。


戸田は、信心を失った姿に、怒りをもって叫び外護に立ち上がった。
これを契機に1952年10月から開始されたのが、
後に創価学会の伝統行事となった「登山会」であった。


日淳は、その経緯のすべてを知っていた。
「戸田先生のおかげで、創価学会のおかげで、大法は清浄に、今日までまいりました。
 本宗は、戸田先生、創価学会の大恩を永久に忘れてはなりません。
 こう、細井(日達)に言っておきました」

日淳は、創価学会を最も深く理解し、敬愛し抜いた。


日淳の 透徹した信仰の眼には学会は、霊山の儀のままに、久遠の誓いのままに、
末法の衆生の救済のために出現した、地涌の菩薩の集いであると映じていたのである。


日淳は 創価学会の基盤とは「師弟の道」にあることを明快に語っている。
1958年11月 学会の総会に出席した日淳は 再び「師弟の道」を主題に講演している。


日淳自筆の原稿から 抜粋すると
「大本尊より 師弟の道は生じ、その法水は流れて学会の上に伝わりつつあると
信ずるのであります。それでありますから、そこに種々なる利益功徳を生ずるのであります」


日淳が、学会の「師弟の道」は、
「大本尊」から生じていると明言していることは重大である。



太字は 『新・人間革命』第2巻より抜粋

勇舞

『新・人間革命』第2巻 勇舞の章 p237~


富山支部の女子部の組織は 女子部の区長が一人も任命できず、
谷川が20の班の班長と 連絡を取りながら進めていくことになる。


山本伸一は、厳しい状況であるからこそ、谷川が、一人立ち、
女子部の班長たちから姉のように慕われ、心から信頼を寄せるようになることが、
重要なポイントになることから、敢えて厳しく訓練しなければならないと思った。


谷川自身の栄えあえる未来のためにも、本当の幹部の姿勢を教えておきたかった。
彼は強い口調で言った。
「自分に力があるなどと思ってはいけない。ましてや、役職の高みに立って、
 人を機械のように動かそうなどと考えては、絶対いけません。
 
 みんなに頭を下げ、『こんな私ですが、よろしくお願いします。
 皆さんのために、どんなことでもやらせてもらいます』という思いで、
 何事にも謙虚に、真剣に取り組むことです。その健気な姿に心打たれて、
 人も立ち上がり、周囲の人も協力してくれる。高慢だと思えば、人はついて来ません。

 策や方法ではない。真剣さです。誠実さです。題目を唱え抜いて、
 みんなを幸せにしようと、体当たりでぶつかっていけるかどうかです。」


幹部として何を第一に考え、活動すべきか。
同志を、会員を守り、励ます。-すべては、そこに尽きていた。


さらに、伸一は 忙しいばかりでは殺伐としたものになってしまうと話し、
「忙中閑あり」が必要であり、何ごとにも“めりはり”が必要で、
リズム、切り替えが大切で、それによって心も一新され、
新たな活力も生まれる
と話す。


山本伸一が 忙しいスケジュールの中でも、日々活力を増していった一つの源泉は、
この「動」と「静」の緩急自在な躍動のリズムを体得していたことにあった。


そして、何よりも、勇んで広宣流布の天地を走り舞う、
“勇舞”の気概にあったのである。



太字は 『新・人間革命』第2巻より抜粋

香典泥棒

『新・人間革命』第2巻 勇舞の章 p188


当時、一部のマスコミによって喧伝されていた、学会は、
“暴力宗教”であるとの中傷の虚構を鋭く突く山本伸一。


「皆さんのなかに、学会に暴力を振るわれて入会したような方が、
 一人でもおりますでしょうか。
 創価学会は 暴力を振って折伏したことなど、
 ただの一度もないと 私は 断言しておきます。」


「むしろ、さまざまな意味で暴力を被ってきたのは、私たち学会の方ではありませんか。
 法的にも、なんの問題もないにもかかわらず、
『創価学会に入るなら、うちの寺の墓地には埋葬させない』などと、脅しをかけてくる。
 また、暴力に訴えた事実もないのに、“暴力宗教”などと書かれること自体が
 ペンの暴力です。」と



どんなウソの喧伝でも、ただ黙って見ていれば、人びとはそれが真実であると
思い込んでしまう。戦わずしては正義も破れる。
時に沈黙は、屈服につながることを知らねばならない。



各地の会合に出席した山本伸一は 時間の許す限り、幹部との懇談の機会を持ち
質問を受けた。


女子部の幹部が 母が信心していない悩みを質問すると
「お母さんを信心させたいと思うなら、あなた自身が変わっていくことです。
 『そもそも仏法とは・・・』などと、口で偉そうに語っても、
 お母さんから見れば、いつまでも娘は娘です。

 そんなことより、お母さんが、本当に感心するような、優しく、
 思いやりにあふれた娘さんになることの方が大切です。」


「信心といっても、特別なことではありません。
 あなたの日頃の振る舞い自体が信心なんです。
 お母さんから見て“わが子ながら本当によく育ったものだ。立派になった”と、
 頬りに思える娘になれば、必ず信心しますよ。」
と話した。


太字は 『新・人間革命』第2巻より抜粋


「創価学会員は 香典を持って行ってしまう。」
戦後 さんざん 宣伝されていた学会批判の一部だ。


事実は、50年以上もたって判明した。



評論家で 戦後の 日本マスコミ界の大御所 

故・大宅壮一氏が 亡くなる間際に 創価学会に 謝罪したのだ。


大宅壮一氏の告白によると 昭和30年代半ば、
全日仏(全日本仏教会)の幹部が泣きついてきた。



「最近、創価学会という宗教が勢いを増して 我々の信徒がゴボウ抜きのようにとられている。

 このままじゃ、たまったもんじゃない。
 創価学会は、こんな嫌らしい宗教だ、と言えるような話はないだろうか」と。


大宅氏は、自分のもとにいた 若手ジャーナリストたちに相談した。



その結果「創価学会は 葬式で香典を持っていく」「位牌や仏壇を壊す」というのはどうか

という話になったというのだ。


「根拠は何もなかったんだが……。」
 
「これが全日仏を通して、一斉に全国に広がってしまったのです。

 言論人として、本当に申し訳なかった」

と告白し、明確に詫びた。



これがデマの真相・背景だった。



そんな事実は全く、「ない」 にもかかわらず、

平成の 今の世の中でさえも、それを信じている人が いまだにいる。


「火がないところに煙はたたない」と いう言葉があるが、
注目されるため、「火のないところにも 煙をたてる」記事を書くのが 
マスコミの使命だと思っている 大手出版社も見受けられる。


ネット上には フェイクニュースがあふれている。 
何が真実化を 見抜く目が必要だ。


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