『新・人間革命』第2巻 民衆の旗 p268~
幸福についてさまざまな哲学者や思想家が論じているが、
それを読んだからといって、絶対に自分も幸福になり、
人をも幸福にできるかというと、そうは言い切れない。
日蓮大聖人のみが、万人に幸福の道を具体的に書かれたのである。
幸福はどこにあるのか。それは、決して彼方に、あるのではない。
人間の胸中に、自身の生命の中にこそあるのだ。
金やモノを手に入れることによって得られる幸福もある。
しかし、それはつかの間の幸福にすぎない。
戸田は、それを「相対的幸福」と呼んだ。
そして、たとえ、人生の試練や苦難はあっても、それさえも楽しみとし、
生きていること自体が幸福であるという境涯を、「絶対的幸福」としたのである。
この悠々たる大境涯を確立するには、いかなる環境にも負けることのない、
強い生命力が必要となる。
その生命力は、自身の胸中に内在しているものであり、それを、
いかにして引き出すかを説いたのが仏法である。
ある哲学者は、“人を幸福にすることが、一番確かな幸福である”旨の言葉を残している。
弘教には歓喜があり生命の最高の充実があります。
『私には折伏なんてできません』という人もいるかもしれませんが、それでも構いません。
牧口先生の時代も、戸田先生の時代も、学会では、折伏をしてくださいなどと、
お願いしたことは、ただの一度もありません。
大聖人が折伏をすれば宿命を転換し、成仏できると、お約束なさっている。
ですから、自分の宿命の転換のため、幸福のためにやろうというのです。
布教していくということは、自身を高める、人間としての最高の慈愛の修行であるとともに、
人びとを幸福と平和へと導きゆく、最極の友情の証なんです。
大切なことは、“あの人がかわいそうだ。幸福になってほしい”という心で、
周囲の人に、折に触れ、仏法を語り抜いていくことです。今は信心しなくとも、
こちらの強い一念と友情があれば、やがて、必ず仏法に目覚める時が来ます。
思うように活動に参加できない人もいるでしょう。・・・
私たちは、おおらかな気持ちで、麗しい同志愛を育みながら、
幸福の道を進んでまいろうではありませんか。
伸一が心を砕いていたのは、その弘教の波に乗り切れずにいる友であった。
彼のまなざしは、常に最も苦しみ悩む人に注がれていたのである。
太字は 『新・人間革命』第2巻より抜粋
幸福についてさまざまな哲学者や思想家が論じているが、
それを読んだからといって、絶対に自分も幸福になり、
人をも幸福にできるかというと、そうは言い切れない。
日蓮大聖人のみが、万人に幸福の道を具体的に書かれたのである。
幸福はどこにあるのか。それは、決して彼方に、あるのではない。
人間の胸中に、自身の生命の中にこそあるのだ。
金やモノを手に入れることによって得られる幸福もある。
しかし、それはつかの間の幸福にすぎない。
戸田は、それを「相対的幸福」と呼んだ。
そして、たとえ、人生の試練や苦難はあっても、それさえも楽しみとし、
生きていること自体が幸福であるという境涯を、「絶対的幸福」としたのである。
この悠々たる大境涯を確立するには、いかなる環境にも負けることのない、
強い生命力が必要となる。
その生命力は、自身の胸中に内在しているものであり、それを、
いかにして引き出すかを説いたのが仏法である。
ある哲学者は、“人を幸福にすることが、一番確かな幸福である”旨の言葉を残している。
弘教には歓喜があり生命の最高の充実があります。
『私には折伏なんてできません』という人もいるかもしれませんが、それでも構いません。
牧口先生の時代も、戸田先生の時代も、学会では、折伏をしてくださいなどと、
お願いしたことは、ただの一度もありません。
大聖人が折伏をすれば宿命を転換し、成仏できると、お約束なさっている。
ですから、自分の宿命の転換のため、幸福のためにやろうというのです。
布教していくということは、自身を高める、人間としての最高の慈愛の修行であるとともに、
人びとを幸福と平和へと導きゆく、最極の友情の証なんです。
大切なことは、“あの人がかわいそうだ。幸福になってほしい”という心で、
周囲の人に、折に触れ、仏法を語り抜いていくことです。今は信心しなくとも、
こちらの強い一念と友情があれば、やがて、必ず仏法に目覚める時が来ます。
思うように活動に参加できない人もいるでしょう。・・・
私たちは、おおらかな気持ちで、麗しい同志愛を育みながら、
幸福の道を進んでまいろうではありませんか。
伸一が心を砕いていたのは、その弘教の波に乗り切れずにいる友であった。
彼のまなざしは、常に最も苦しみ悩む人に注がれていたのである。
太字は 『新・人間革命』第2巻より抜粋