『新・人間革命』第30巻(上) 大山の章 18p~
山本伸一は、心に期していた。“間もなく「七つの鐘」が鳴り終わり、21世紀への5年ごとの新しい歩みが始まる。今こそ、力強く、その助走を開始する時だ!油断を排し、細心の注意を払うことだ。皆が心を一つに、希望の前進を開始できるように、これまで以上に同志に激励に徹しよう。”まさに間断なき全力疾走の日々であった。
このころ、またもや各地で、宗門僧による学会攻撃が繰り返されるようになっていた。前年の11月7日に行われた創価学会創立48周年を記念する代表幹部会で僧俗和合が再確認され、事態は収束に向かうはずであった。
しかし、この代表幹部会の直後から、学会の和解は偽装であるなどという意図的な話を、一部の週刊誌などが盛んに書き立てた。背後で、学会攻撃を煽る陰湿な謀略が進んでいたのだ。宗門僧たちは学会攻撃の材料探しに血眼になっていた。
学会は、和合のために、どこまでも耐忍と寛容で臨み、神経をすり減らすようにして宗門に対応し続けた。そんなさなか宗門が問題にしたのは、鮫島の無責任な発言であった。しかも調子にのって語った私見を、「すべて副会長全員の意見である」などと述べていたのである。
日蓮大聖人は「わざわいは口より出でて身をやぶる」と仰せである。驕りと油断は禍を生み、自分の身を破る。そればかりか、広宣流布をも破ることになるのだ。一人の幹部の軽率極まりない発言が、信徒を隷属させようとする宗門僧による学会攻撃の、恰好の材料となっていった。
鮫島は学会の副会長であることから、追及の矛先は会長の伸一に向けられた。学会側が事態を収束させるために苦心し誠意を尽くして努力を重ねてきたことが、これで水疱に帰してしまったのである。
4月2日は、第二代会長・戸田城聖の祥月命日である。伸一の胸中には青空が広がっていた。弟子として自身の来し方に、一点の曇りもなかった。恩師が示した「七つの鐘」のうち、「第7の鐘」がいよいよ鳴り終わる時を迎えようとしていた。21世紀に飛翔する学会の盤石な基盤が築かれ、新段階に入るのだ。戸田の追善勤行を終えて帰宅した彼は、宗門との問題について思索を巡らしていった。
学会は、これまで宗門を最大に外護し、宗門は大興隆を遂げた。また学会は、広宣流布をめざし広く社会に仏法を展開することに最大の力を注いできた。しかし、宗門僧らは、その言葉尻などをとらえ、教義の逸脱、謗法だと言って学会員を見下し、責め続けた。彼らの姿に慈悲のかけらもなかった。
そうした横暴に、わが同志は、悔しさに身悶えし、涙を堪えながら、じっと耐えてきた。それを思うと、伸一は居ても立ってもいられなかった。
宗門には、もともと檀家制度の歴史のなかで培われてきた「僧が上」「在家は下」という考えが根強くあった。学会の草創期から、僧たちが衣の権威をかざし、仏子である学会員を苦しめる事実が数多くあったが、それは、宗祖・大聖人の御精神に反する。「総じて日蓮が弟子旦那等・自他彼此の心なく」等の御文に明らかなように、僧も、在家も、本来、平等であるというのが大聖人の教えであるからだ。
伸一は、僧たちの信徒支配の意識に潜む、恐るべき魔性を感じていた。初代会長・牧口常三郎と、第二代会長・戸田城聖は、戦時中、宗門が神札を容認した時、正法正義を貫き、軍部政府の弾圧によって投獄され、遂に牧口は殉教した。その学会に登山禁止など、卑劣な仕打ちを重ねた。だが、それでもなお、戦後、学会は広宣流布の実現のためにと、宗門を外護して、赤誠を尽くしてきた。
日蓮大聖人の末弟を名乗る僧たちが、宗祖の御遺命通りに死身弘法の実践を重ねてきた学会を迫害する。およそ考えがたい事態が、創価教育学会の時代から続いてきたのだ。
しかし、それも仏法の眼を開けば、すべては明らかである。大聖人は、誰が仏法を破壊していくかに言及されている。「外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし獅子身中の虫の師子を食等云々」
伸一は、“今、何よりも優先しなくてはならないのは、僧たちの非道な攻撃をやめさせ、会員を守ることだ。これまで学会が、何度も、さまざまな宗門の要求を聞き入れ、譲歩を重ねてきたのも、そのためである”その事態を脱却しようと、重ねてきたさまざまな努力も、今や、副会長である鮫島源治の発言によって無に帰してしまったのだ。
太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
このころ、またもや各地で、宗門僧による学会攻撃が繰り返されるようになっていた。前年の11月7日に行われた創価学会創立48周年を記念する代表幹部会で僧俗和合が再確認され、事態は収束に向かうはずであった。
しかし、この代表幹部会の直後から、学会の和解は偽装であるなどという意図的な話を、一部の週刊誌などが盛んに書き立てた。背後で、学会攻撃を煽る陰湿な謀略が進んでいたのだ。宗門僧たちは学会攻撃の材料探しに血眼になっていた。
学会は、和合のために、どこまでも耐忍と寛容で臨み、神経をすり減らすようにして宗門に対応し続けた。そんなさなか宗門が問題にしたのは、鮫島の無責任な発言であった。しかも調子にのって語った私見を、「すべて副会長全員の意見である」などと述べていたのである。
日蓮大聖人は「わざわいは口より出でて身をやぶる」と仰せである。驕りと油断は禍を生み、自分の身を破る。そればかりか、広宣流布をも破ることになるのだ。一人の幹部の軽率極まりない発言が、信徒を隷属させようとする宗門僧による学会攻撃の、恰好の材料となっていった。
鮫島は学会の副会長であることから、追及の矛先は会長の伸一に向けられた。学会側が事態を収束させるために苦心し誠意を尽くして努力を重ねてきたことが、これで水疱に帰してしまったのである。
4月2日は、第二代会長・戸田城聖の祥月命日である。伸一の胸中には青空が広がっていた。弟子として自身の来し方に、一点の曇りもなかった。恩師が示した「七つの鐘」のうち、「第7の鐘」がいよいよ鳴り終わる時を迎えようとしていた。21世紀に飛翔する学会の盤石な基盤が築かれ、新段階に入るのだ。戸田の追善勤行を終えて帰宅した彼は、宗門との問題について思索を巡らしていった。
学会は、これまで宗門を最大に外護し、宗門は大興隆を遂げた。また学会は、広宣流布をめざし広く社会に仏法を展開することに最大の力を注いできた。しかし、宗門僧らは、その言葉尻などをとらえ、教義の逸脱、謗法だと言って学会員を見下し、責め続けた。彼らの姿に慈悲のかけらもなかった。
そうした横暴に、わが同志は、悔しさに身悶えし、涙を堪えながら、じっと耐えてきた。それを思うと、伸一は居ても立ってもいられなかった。
宗門には、もともと檀家制度の歴史のなかで培われてきた「僧が上」「在家は下」という考えが根強くあった。学会の草創期から、僧たちが衣の権威をかざし、仏子である学会員を苦しめる事実が数多くあったが、それは、宗祖・大聖人の御精神に反する。「総じて日蓮が弟子旦那等・自他彼此の心なく」等の御文に明らかなように、僧も、在家も、本来、平等であるというのが大聖人の教えであるからだ。
伸一は、僧たちの信徒支配の意識に潜む、恐るべき魔性を感じていた。初代会長・牧口常三郎と、第二代会長・戸田城聖は、戦時中、宗門が神札を容認した時、正法正義を貫き、軍部政府の弾圧によって投獄され、遂に牧口は殉教した。その学会に登山禁止など、卑劣な仕打ちを重ねた。だが、それでもなお、戦後、学会は広宣流布の実現のためにと、宗門を外護して、赤誠を尽くしてきた。
日蓮大聖人の末弟を名乗る僧たちが、宗祖の御遺命通りに死身弘法の実践を重ねてきた学会を迫害する。およそ考えがたい事態が、創価教育学会の時代から続いてきたのだ。
しかし、それも仏法の眼を開けば、すべては明らかである。大聖人は、誰が仏法を破壊していくかに言及されている。「外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし獅子身中の虫の師子を食等云々」
伸一は、“今、何よりも優先しなくてはならないのは、僧たちの非道な攻撃をやめさせ、会員を守ることだ。これまで学会が、何度も、さまざまな宗門の要求を聞き入れ、譲歩を重ねてきたのも、そのためである”その事態を脱却しようと、重ねてきたさまざまな努力も、今や、副会長である鮫島源治の発言によって無に帰してしまったのだ。
太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋