『新・人間革命』第19巻 凱歌の章 168P~
翌24日は、リマ市の日秘文化会館で記念撮影会が行われた。 撮影は、会館の庭で7回に分けて行われ、約2千人が、山本伸一と記念のカメラに納まったのである。リマから8百数十キロ離れた、ブラジル国境に近いプカルパから、アンデス山脈を越えて来たメンバーもいた。何度もバスを乗り継ぎ、幾つもの山を越え、三日がかりで着いたという人もいた。
最後に伸一がマイクに向かった。「本日は、ペルーの広宣流布に尽力され、大発展の礎を築いてこられた全ペルーの皆さんを代表して、キシベ理事長に『広布の塔』のミニチュアをお贈りします」皆が共に喜びを分かち合う姿のなかに、団結はある。
山本伸一は、天野博物館に向かった。8年前にペルーに来た折にも、天野と親しく懇談していた。伸一は、博物館の経営が難しく、存続が危ぶまれていることを聞くと、援助を申し出た。そして、3か月後に、寄付金が届けられている。
翌25日、山本伸一一行は、リマ市の市庁舎を訪ねた。同市から、伸一を「特別名誉市民」としたい旨の話があり、その授賞式に出席するためである。「ここに最高の尊敬の念をこめ、特別名誉市民の称号と、市の鍵をお贈りいたします」ペルー理事長のキシベは、涙をこらえるのに必死であった。
この夜、「世界平和ペルー文化祭」の最終公演が行われた。出演者は、総勢900人になる。皆、"この幸せを見てください!"と言わんばかりに、はつらつと快活に、こぼれそうな笑顔で、舞い踊っていた。"やりました、先生、私たちは勝ちました!"
最後に伸一は叫んだ。「ビバ、ペルー!ビバ、リマ!」
ホテルに戻ってしばらくしてから、山本伸一の体調が急変した。腹痛と下痢、発熱が始まったのである。翌日、伸一はサンマルコス大学のファン・デ・ディオス・ゲバラ総長と会見することになっていたのだ。伸一は、ほとんど眠れぬ夜をすごした。足がふらつくが、「何があってもお伺いするのが、人間の信義じゃないか」と大学を訪問する。
短時間で終わらせるはずが、語らいは白熱した。教授たちは、皆、真剣であった。伸一は、毅然として訴え抜いた。
さらに彼は、世界的視野に立った、21世紀の教育興隆の流れを開くために、「教育国連」の構想を語った。これは、前年の10月に彼が提唱したもので、政治的権力に左右されず、教育権の独立を守り、世界平和への精神的な砦とするための、教育の国際的な連合組織である。そして、その準備段階として、彼は「世界大学総長会議」の開催を提案したのである。
ゲバラ総長から、昼食を共にするように誘われた。しかし、伸一の体力は限界に達していた。翌日の予定は、理事長の泉田に代行を務めてもらい、メッセージを託した。断じて病に打ち勝つという一念こそが、病魔克服の原動力となる。
女子部長のフクロイが、5センチほどの人形を伸一に届けに来た。ペルーの国旗を手にして馬に乗った、鉛でできた兵隊の人形である。人形を贈ったのは15歳の少女で、母と共に信心に励んでいたが、家は貧しかった。
少女は、母の仕事を手伝ってバス代をもらい、練習に駆けつける毎日であった。少女は"山本先生"のことを思うと勇気が涌いた。"先生に何かお礼がしたい"と思った。兵隊の人形を見つけた。"練習に通うバス代を節約すれば、買うことができる!"歩けば片道2時間ほどかかったが、何日か徒歩で通い、人形を手に入れたのだ。
伸一は、その話を聞くと、すぐに少女への激励の一文を口述し、小遣いと一緒にフクロイに託した。それを受け取った少女は"絶対に負けずに、自分の未来を切り開こう。""誓い"は未来を開く。"誓い"は成長の源泉となる。その後の彼女の人生は平坦ではなかった。生活苦との戦いが続いた。しかし、教員をめざして苦学して大学に進み、念願の小学校教師になっている。
伸一の励ましによって心田に植えられた決意の種子は、見事に花開いたのである。
翌24日は、リマ市の日秘文化会館で記念撮影会が行われた。 撮影は、会館の庭で7回に分けて行われ、約2千人が、山本伸一と記念のカメラに納まったのである。リマから8百数十キロ離れた、ブラジル国境に近いプカルパから、アンデス山脈を越えて来たメンバーもいた。何度もバスを乗り継ぎ、幾つもの山を越え、三日がかりで着いたという人もいた。
最後に伸一がマイクに向かった。「本日は、ペルーの広宣流布に尽力され、大発展の礎を築いてこられた全ペルーの皆さんを代表して、キシベ理事長に『広布の塔』のミニチュアをお贈りします」皆が共に喜びを分かち合う姿のなかに、団結はある。
山本伸一は、天野博物館に向かった。8年前にペルーに来た折にも、天野と親しく懇談していた。伸一は、博物館の経営が難しく、存続が危ぶまれていることを聞くと、援助を申し出た。そして、3か月後に、寄付金が届けられている。
翌25日、山本伸一一行は、リマ市の市庁舎を訪ねた。同市から、伸一を「特別名誉市民」としたい旨の話があり、その授賞式に出席するためである。「ここに最高の尊敬の念をこめ、特別名誉市民の称号と、市の鍵をお贈りいたします」ペルー理事長のキシベは、涙をこらえるのに必死であった。
この夜、「世界平和ペルー文化祭」の最終公演が行われた。出演者は、総勢900人になる。皆、"この幸せを見てください!"と言わんばかりに、はつらつと快活に、こぼれそうな笑顔で、舞い踊っていた。"やりました、先生、私たちは勝ちました!"
最後に伸一は叫んだ。「ビバ、ペルー!ビバ、リマ!」
ホテルに戻ってしばらくしてから、山本伸一の体調が急変した。腹痛と下痢、発熱が始まったのである。翌日、伸一はサンマルコス大学のファン・デ・ディオス・ゲバラ総長と会見することになっていたのだ。伸一は、ほとんど眠れぬ夜をすごした。足がふらつくが、「何があってもお伺いするのが、人間の信義じゃないか」と大学を訪問する。
短時間で終わらせるはずが、語らいは白熱した。教授たちは、皆、真剣であった。伸一は、毅然として訴え抜いた。
さらに彼は、世界的視野に立った、21世紀の教育興隆の流れを開くために、「教育国連」の構想を語った。これは、前年の10月に彼が提唱したもので、政治的権力に左右されず、教育権の独立を守り、世界平和への精神的な砦とするための、教育の国際的な連合組織である。そして、その準備段階として、彼は「世界大学総長会議」の開催を提案したのである。
ゲバラ総長から、昼食を共にするように誘われた。しかし、伸一の体力は限界に達していた。翌日の予定は、理事長の泉田に代行を務めてもらい、メッセージを託した。断じて病に打ち勝つという一念こそが、病魔克服の原動力となる。
女子部長のフクロイが、5センチほどの人形を伸一に届けに来た。ペルーの国旗を手にして馬に乗った、鉛でできた兵隊の人形である。人形を贈ったのは15歳の少女で、母と共に信心に励んでいたが、家は貧しかった。
少女は、母の仕事を手伝ってバス代をもらい、練習に駆けつける毎日であった。少女は"山本先生"のことを思うと勇気が涌いた。"先生に何かお礼がしたい"と思った。兵隊の人形を見つけた。"練習に通うバス代を節約すれば、買うことができる!"歩けば片道2時間ほどかかったが、何日か徒歩で通い、人形を手に入れたのだ。
伸一は、その話を聞くと、すぐに少女への激励の一文を口述し、小遣いと一緒にフクロイに託した。それを受け取った少女は"絶対に負けずに、自分の未来を切り開こう。""誓い"は未来を開く。"誓い"は成長の源泉となる。その後の彼女の人生は平坦ではなかった。生活苦との戦いが続いた。しかし、教員をめざして苦学して大学に進み、念願の小学校教師になっている。
伸一の励ましによって心田に植えられた決意の種子は、見事に花開いたのである。
太字は 『新・人間革命』第19巻より 抜粋