『新・人間革命』第22巻 命宝の章 391p
愛する呉の同志の、幸福を祈りながら、伸一は 話を続けた。
「長い人生であり、長い広宣流布の旅路です。いろいろな困難もあるでしょう。しかし、その時が、宿命転換の人間革命のチャンスなんです。"負けるものか!"と、不屈の闘魂を燃え上がらせて、信心を貫いていくことです。そして、ひたぶるに、お題目を唱え、広宣流布に走り抜いていくんです。信心に行き詰まりはありません。私も唱題第一でここまで来ました。祈れば自分が変わります。祈れば、自分が変わります。周囲の人も変えていくことができる。」
「ところが、いざ困難に出くわし、窮地に立たされると、"もう駄目だ"とあきらめてしまう。しかし、実は、困難の度が深まれば深まるほど、もう少しで、それを乗り越えられるところまできているんです。闇が深まれば深まるほど、もう少しで、それを乗り越えられるところまできているんです。闇が深ければ深いほど、暁は近い。ゆえに、最後の粘りが、勝利への一念を凝縮した最後の瞬発力が、人生の勝敗を決していくんです」
「悩みがなくなってしまったら、人生は全く味気ないものになってしまう。お腹が空くからご飯がおいしい。大変さのなかにこそ、喜びがあるんです。」
「成仏というのは、なんの悩みもなく、大金を持ち、大邸宅に住むことではありません。大歓喜にあふれ、生命が脈動し、何があっても挫けない、挑戦の気概に満ち満ちた境涯のことです。広宣流布に生き抜くならば、一生成仏は間違いありません」
伸一は、皆に、断じて幸福になってほしかった。信心の醍醐味を実感してほしかった。皆が、人生の勝利者になってほしかった。
婦人部の竹島が、伸一の腕を引っ張って言った。「先生!呉会館はこちらです。みんながお待ちしています」彼女は、伸一が、そのまま帰ってしまうのではないかと、心配でならなかったのだ。伸一は、同志を思う、彼女の真剣さが嬉しかった。
「それにしても、竹島さんは、よくぞ15年間、苦しいなかで、頑張ってくれたね。ありがとう」竹島は、なんのことか、すぐにはわからなかった。彼女はハッとする。1961年(昭和36年)に山本会長の面接を受け、呉支部の副婦人部長になってから、夫婦で毎月のように、東京での本部幹部会に通って15年になるのだ。
自分でさえ、忘れていたことを、覚えていてくれた伸一の一念の深さに、彼女は涙するのであった。自分のことを、心から思ってくれる人の存在が、人間を奮い立たせるのだ。
1967年7月大豪雨が九州北部から関東を襲った。呉の被害も大きく、死者88人、負傷者467人、全半壊家屋557棟を出したのである。
この時、杉村七郎は公明党の二人の市議会議員らと共に、山崩れで生き埋めになった一家の救出に向かった。救助隊も到着し、生き埋めになった4人のうち3人を救出し、最後に残った8歳の少女を救出中に、再び山崩れが起き、杉村は 命を失ったのである。
杉村は「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆の中に死んでいく」との、公明党の立党精神を、
座右の銘にしていた。まさに、その通りの生涯であった。伸一は 杉村の婦人と、その子息を呼んで励ました。
「長い人生であり、長い広宣流布の旅路です。いろいろな困難もあるでしょう。しかし、その時が、宿命転換の人間革命のチャンスなんです。"負けるものか!"と、不屈の闘魂を燃え上がらせて、信心を貫いていくことです。そして、ひたぶるに、お題目を唱え、広宣流布に走り抜いていくんです。信心に行き詰まりはありません。私も唱題第一でここまで来ました。祈れば自分が変わります。祈れば、自分が変わります。周囲の人も変えていくことができる。」
「ところが、いざ困難に出くわし、窮地に立たされると、"もう駄目だ"とあきらめてしまう。しかし、実は、困難の度が深まれば深まるほど、もう少しで、それを乗り越えられるところまできているんです。闇が深まれば深まるほど、もう少しで、それを乗り越えられるところまできているんです。闇が深ければ深いほど、暁は近い。ゆえに、最後の粘りが、勝利への一念を凝縮した最後の瞬発力が、人生の勝敗を決していくんです」
「悩みがなくなってしまったら、人生は全く味気ないものになってしまう。お腹が空くからご飯がおいしい。大変さのなかにこそ、喜びがあるんです。」
「成仏というのは、なんの悩みもなく、大金を持ち、大邸宅に住むことではありません。大歓喜にあふれ、生命が脈動し、何があっても挫けない、挑戦の気概に満ち満ちた境涯のことです。広宣流布に生き抜くならば、一生成仏は間違いありません」
伸一は、皆に、断じて幸福になってほしかった。信心の醍醐味を実感してほしかった。皆が、人生の勝利者になってほしかった。
婦人部の竹島が、伸一の腕を引っ張って言った。「先生!呉会館はこちらです。みんながお待ちしています」彼女は、伸一が、そのまま帰ってしまうのではないかと、心配でならなかったのだ。伸一は、同志を思う、彼女の真剣さが嬉しかった。
「それにしても、竹島さんは、よくぞ15年間、苦しいなかで、頑張ってくれたね。ありがとう」竹島は、なんのことか、すぐにはわからなかった。彼女はハッとする。1961年(昭和36年)に山本会長の面接を受け、呉支部の副婦人部長になってから、夫婦で毎月のように、東京での本部幹部会に通って15年になるのだ。
自分でさえ、忘れていたことを、覚えていてくれた伸一の一念の深さに、彼女は涙するのであった。自分のことを、心から思ってくれる人の存在が、人間を奮い立たせるのだ。
1967年7月大豪雨が九州北部から関東を襲った。呉の被害も大きく、死者88人、負傷者467人、全半壊家屋557棟を出したのである。
この時、杉村七郎は公明党の二人の市議会議員らと共に、山崩れで生き埋めになった一家の救出に向かった。救助隊も到着し、生き埋めになった4人のうち3人を救出し、最後に残った8歳の少女を救出中に、再び山崩れが起き、杉村は 命を失ったのである。
杉村は「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆の中に死んでいく」との、公明党の立党精神を、
座右の銘にしていた。まさに、その通りの生涯であった。伸一は 杉村の婦人と、その子息を呼んで励ました。
会館を出発する時も各部屋を見て、こまやかな配慮を怠らなかった。大事故も、その原因は小事にある。ゆえに、細かいことへの注意が、事故を未然に防ぐ力となるのだ。
「目に見えないところにまで、心を配り、陰で頑張っている人、さらに、その陰の陰で黙々と戦っている人を探し出し、一人ひとり、全力で激励していくんです。幹部がそれを忘れたら、創価学会ではなくなってしまう。冷酷な官僚主義だ。学会は、どこまでも、真の人間主義でいくんです」
呉の同志への激励は、帰途の車中でも、まだ続くのである。道路やバス停にいる婦人を見て学会員だと言って 激励の品を渡す。
伸一は、大切な会員を一人として見過ごすことなく、「励まし」の光を注ごうと、全生命を燃やし尽くした。だから、彼には、瞬時に、学会員がわかったのである。
間断なき挑戦と闘争のなかにこそ、生命の歓喜と躍動があるのだ。
<命宝の章 終了>
<新・人間革命 22巻 終了>
太字は 『新・人間革命』第22巻より 抜粋