小説 新・人間革命に学ぶ

人生の 生きる 指針 「小説 新・人間革命」を 1巻から30巻まで、読了を目指し、指針を 残す

新世界

新世紀への協議会

『新・人間革命』第22巻 新世紀の章7p

<新・人間革命 第22巻 開始>
< 新世紀の章 開始 >


「新世紀ーー。それは、『平和の世紀』『人間の世紀』『勝利の世紀』『栄光の世紀』、そして「戦争なき世紀」『生命の世紀』だ」

その言葉は、彼が断じて実現せねばならぬと決めた、自らへの誓いでもあった。1975年(昭和50年)の5月30日、第二次ソ連訪問から帰国した伸一は、新世紀建設への決意に燃えていた。「草莽崛起」(民衆の決起)は、吉田松陰の悲願であった。もし彼が、世界に広がる、わが創価の堂々たる民衆の陣列を目にしたならば、どれほど感嘆するであろうか。

伸一は、新世紀への飛翔のために、この時、最も力を注いだのが、東京各区をはじめ、各地の首脳幹部との協議会であった。6月5日には、彼の故郷でもある大田区の代表50人と、協議会をもった。

大田には、伸一が生命を削るようにして築き上げた黄金の歴史が無数にある。まさに、かけがえのない創価の精神の宝庫である。この誇りを忘れれば、どんなに偉大な歴史も単なる昔話となり、その精神は埋もれ、死滅していってしまう。

師匠が、先人たちが、築き上げてきた敢闘の歴史は、その心を受け継ぎ、新しい戦いを起こそうとする後継の弟子によって、今に燦然たる輝きを放つのだ。

自分に代わって、皆が力を合わせ、大田を広宣流布が最も進んだ模範の地にしてほしかった。"出でよ、陸続と出よ!山本伸一よ!"

正本堂の建立後、それの伴う周辺の整備がほぼ完了したことから、向こう5年間は、会館の建設など、学会の新しい発展の基盤づくりに力を入れることになっていた。

伸一は、会館というと、戸田城聖との忘れられない思い出があった。ーー本部となる独自の会館をつくることは、戦後、戸田が学会の再建に着手した時からの夢であった。しかし、戸田の会社の経営は悪化し、窮地に陥っていった。とても会館の建設どころではなかった。

伸一の心には、瞬時も離れず戸田がいた。彼の日々は、瞬間、瞬間、師匠である戸田との対話であった。毎朝、唱題しながら、伸一は、誓った。"先生!今日もまた、全力で戦い抜きます。先生のために、必ず勝利いたします。まことの弟子の実践をご覧ください"

師弟とは、形式ではない。常に心が師にあってこそ、本当の師弟である。心に師がいてこそ、人間としての「自律」があり、また、真の「自立」があるのだ。

戸田は、会員のために、一刻も早く、広い立派な会館をつくりたいと念願していた。皆に申し訳ない気持ちさえ、いだいていた。しかし、そんな戸田の心も知らず、「世間があっと驚くような、建物の一つももちたいものですね」などという幹部もいた。

戸田は強い口調で語った。「まだよい、かたちばかりに目を奪われるな。私のいるところが本部だ!それで十分じゃないか。組織を盤石につくることを考えなさい」

戸田は伸一に言った。「将来は、日本中に、こんな会館が建つようにしたいな」伸一は、その言葉を生命に刻んだ。そして今、かつての学会本部をはるかにしのぐ、幾つもの大会館を、各県区に、つくれるようになったのである。

「会館を立派にするのは、もし、地震や台風などの災害があった時には、地域の方々の避難所としても使えるようにするためでもあります。」「学会の会館は、地域の発展に寄与する灯台です。皆さんは、その灯台守の自覚で、会館を守っていってください。」

この年の7月3日には第二代会長戸田城聖の出獄30周年であった。創価学会の確信の精髄は、戸田城聖の「獄中の悟達」にある。その悟達こそが、学会の魂である。その戸田という師に連なる時、学会は広宣流布を使命とする「創価学会仏」たり得るのである。伸一は、戸田に「仏」を見ていた。

「広宣流布は、この戸田がする」彼は決して「戦ってくれ」とは言わなかった。自分でやると決めていたのだ。一人立ったのである。だが、その戸田が、ある時、伸一にこう語ったのである。「広宣流布は、お前がやるのだ。立正安国の戦を起こせ!」

戸田は、最終的には、自分と同じく、獅子となって一人立つ弟子を、つくろうとしていたのである。そして、その範を示す使命を、伸一に託したのだ。


太字は 『新・人間革命』第22巻より 抜粋


知性の宝冠

『新・人間革命』第21巻 宝冠の章 391p

伸一一行は「赤の広場」にあるレーニン廟に献花した。
午後5時、クレムリンで、8か月ぶりにコスイギン首相と再会したのだ。昨年秋に引き続いて、二度目の会談とあって、打ち解けた語らいとなった。

伸一は、「私は政治家ではありません。日本の一壮年として、率直にお話しさせていただきます」と前置きい、コスイギン首相の米ソの緊張緩和に対する努力を讃えた。次いで、平和建設のための未来展望について、さまざまな観点から意見交換した。

コスイギン首相は、日中平和友好条約がどうなるのか、特に反覇権条項がどうなるのかに強い関心を持っていた。日中平和友好条約の締結が進められようとしているなかでのソ連の対応について、首相が伸一に率直に意見を求める一コマもあった。

この時期、中ソ関係は、最悪の事態を迎えていた。しかし、激しく非難し合ってはいても、戦争へと迷走することはなかった。両国首脳は、伸一という一つのパイプを通して、戦争を避けようとする、互いの心音と息づかいを感じていたのかもしれない。

伸一は、険悪化する中ソの関係を改善するためには、自分が両者の架け橋になろうと覚悟を決めていた。対立する両者に、対話の必要性を語り、友好と平和への歩みを開始させることは、いかに難しいかを、彼はよく知っていた。両者から反感をかい、憎まれることもある。しかし、だからこそ、自分がやるべきであると、彼は心を定めていたのだ。

ソ連対文連、モスクワ大学が主催する「さよならパーティー」に、山本伸一たち、訪ソ団一行が招かれて出席した。伸一は、関係者に深く、丁重に感謝の意を表したあと、今後の友好への決意を力強く語り始めた。

「よく『日本人は熱しやすく冷めやすい』と言われます。」「その場だけを取り繕うとうする発言、約束は、いくらでもできます。しかし、それでは本当の友好は確立できないでしょう。『建設は死闘』です。真の友好の道を開くのは、その決意と行動です」

伸一は、一部の政治家たちの、口先だけの実践なき"親善"や"友好"を憂えていた。いや、怒りさえ覚えていた。「私は、永遠に日ソの平和交流を貫いていきますーーその決意を、遺言にも似た思いで、ここに語っておきます」

通訳をしていた一人の日本人女性が「長い間通訳をしてきて、日本人の悪い面はいやというほど目にしてきた。今、先生の話を聞き、初めて通訳をしてきてよかったと心からいうことができます」と涙ながらに訴えた。

訪ソ団一行が 空港に向かう時、伸一は 一人の老人との対話を思いだしていた。孫と釣りをしている老人と話すと戦争で家族を失ったという、老人は「わしらは、戦争に苦しめられてきた。この子たちには、あんな思いは、絶対にさせたくはない。もう、こりごりだ・・・。戦争はいけません。絶対に、絶対にいけませんや」戦争の辛酸を、幾たびとなく、なめてきたのだろう。

伸一は、その顔を、その声を、忘れることができなかった。"民衆は、心の底から平和を求めている。その声をくみ上げ、その心結ぶのだ!"

彼の目には、地上に延びる精神のシルクロードが映っていた。"この精神のシルクロードを築き上げることこそ、モスクワ大学の名誉博士号という「知性の宝冠」を賜った私の使命なのだ!彼ははやる心で、星辰の彼方を仰いだ。


< 宝冠の章 終了>
< 新・人間革命 第21巻 終了 >



太字は 『新・人間革命』第21巻より 抜粋


学会の平和運動を語る

『新・人間革命』第21巻 宝冠の章 381p

「持てる北」「持たざる南」という色分けは経済発展度によるものであり、それが文化の領域全般の優越性を示すものではないと指摘。逆に発展途上の国であっても、世界に誇るなんらかの文化的財産を保有していると力説した。

伸一は、経済至上主義の世界の在り方、人間汚考え方を断じて変えねばならないと思っていた。
次いで伸一は、ソ連こそ、東西、南北にわたる文化交流の橋渡しの役割を担っているとして、その特質をあげた。

そして、彼は、願いを託すように訴えた。「アジアの心も、ヨーロッパの心も、そして、『北』の心も、『南』の心も、ソ連には理解できるに相違ない。だからこそ、東西文化交流に、そしてまた、南北文化交流に、ソ連が寄与すべき任務は多々あると、私は信じたいのであります」

歓声と拍手が雷鳴となって場内を包んだ。拍手は、いつまでも鳴りやまなかった。歓声をあげながら聴衆が立った。そして、盛大な拍手で、伸一を見送った。

通訳をしたストリジャック主任講師が駆け寄ってきた。感無量の表情で、伸一の手を握り締めた。その目が潤んでいた。ストリジャックは前夜徹夜までして、講演原稿の翻訳に万全を期したのである。

伸一は、かつて、戸田城聖が「戸田大学」で個人教授をしながら、語った言葉が、思い出された。「世界のいかなる大学者、大指導者とも、いかなる問題であれ、自由自在に論じられる力をつけるように、鍛えておくからな」

来る日も、来る日も、自身の一切の学識と経験と智慧とを伝えてくれた。伸一は、恩師を思うと、ありがたさに身が打ち震えるのであった。

山本伸一たちは、モスクワ大学に移動し、同大学と創価大学の学術交流に関する協定書の調印式に臨んだ。翌28日も、ぎっしりと行事が詰まっていた。伸一は体調を崩し、熱もあった。しかし、そんな素振りさえ見せずに、彼は精力的に動いた。

一行はソ連平和委員会を訪問した。N・S・チーホノウフ議長とS・S・スミルノフ副議長、ソ連科学アカデミー会員でノーベル物理学賞を受賞したP・A・チェレンコフ博士など、主要メンバーが迎えてくれた。

チーホノフ議長らは、これまでの伸一の平和提言や、青年部が行った核廃絶1千万署名など、学会の平和運動を高く評価した。「世界の平和を真剣に考えるなら、会長の提言に耳を傾けざるをえません」

伸一は、学会の平和運動についての考えを明らかにした。「創価学会は、軍部政府の弾圧と戦い、初代会長は獄死、第二代会長も二年間の獄中生活を送っています。だが、大多数の教団、団体は、戦時中、軍部政府に協力してきました。そのことに本当の反省もなく、戦後の弾圧のない平和な時代になってから、『平和、平和』と叫ぶ。そうした運動については、その真偽を厳しく見極めていきたいと思っております。」

「平和」と言えば、否定したり、反対したりする人は、まずいない。それをいいことに宗教団体や政治団体などが、「平和」を自分たちの宣伝の道具として利用するケースが、あまりにも多いのである。

本当に平和を推進するには、いかにして平和を実現するかという哲学、理念が不可欠である。また、命をなげうつことも辞さぬ覚悟がなくてはならない。

「私ども創価学会の平和運動は、まず、生命尊厳の仏法哲理を学び合うことから始まります。」「戦争の根本要因は、相手を信じられないという相互不信、人間不信にあります。各人がそれを打ち破る人間革命の実践に励み、観念ではなく、現実の社会のなかに、人間共和の縮図をつくり上げ、それを、イデオロギー、民族、国境を超えて、世界に広げようというのが、私たちの運動です」


平和は叫びぬかなければ、その輪が広がることはない。だから、伸一は、平和への道を語り抜いたのである。

太字は 『新・人間革命』第21巻より 抜粋


人間と人間をつなぐ精神のシルクロード

『新・人間革命』第21巻 宝冠の章 377p

かつて東西交流の架け橋といわれたシルクロードに触れ、その存在が、世界の諸文化に甚大な影響をもたらし、ユーラシア大陸の文化が遠く日本まで、シルクロードを通して伝播している事実を紹介したあと、こう聴衆に呼びかけた。

「では、文化が、かくも広範に伝播、交流をなした要因は、どこにあったのでしょうか」伸一は、講演といっても、話を一方通行に終わらせたくなかったのである。皆に声をかけ、心を通わせ合うなかで、共感と理解は深まるからだ。

伸一の独自の文化論が展開されていった。「本来、文化の骨髄は、最も普遍的な人間生命の躍動する息吹にほかなりません。それゆえ、人間歓喜の高鳴る調べが、あたかも人びとの胸中に張られた弦に波動し、共鳴音を奏でるように、文化は人間本来の営みとして、あらゆる隔たりを超えて、誰人の心をもとらえるのであります。

この人間と人間との共鳴にこそ、文化交流の原点があると、私は考えるのであります。したがって、人間性の共鳴を基調とする文化の性格というものは調和であり、まさに、武力とは対極点にたつものであります」

伸一は、ここで、武力と文化を対比させながら、その特質を論じていった。「軍事、武力が、外的な抑圧によって、人間を脅かし、支配しようとするのに対し、文化は、内面から人間自身を開花、解放させるものであります」

「また、武力は、軍事的、また経済的な強大国が弱小国を侵略するという、力の論理に貫かれているが、文化交流は、摂取という、受け入れ側の主体的な姿勢が前提となる。さらに、武力の基底に宿るものが破壊であるのに対して、文化の基底に宿るものは創造であります」

「いわば、文化は、調和性、主体性、創造性を骨格とした、強靭な人間生命の産物であるといえましょう。そして、その開花こそが、武力、権力に抗しうる人間解放の道を開く唯一の方途であると、私は考える次第です」

講演は本題に入っていった。世界の心ある識者、指導者は、東西文化交流の早期実現を強く念願していると述べ、こう力説した。「民族、体制、イデオロギーの壁を超えて、文化の全領域にわたる民衆という底流からの交わり、つまり、人間と人間との心をつなぐ『精神のシルクロード』が、今ほど要請されている時代はないと、私は訴えたいのであります」

「民衆同志の自然的意思の高まりによる文化交流こそ、『不信』を『信頼』に変え、『反目』を『理解』に変え、この世界から戦争という名の怪物を駆逐し、真実の永続的な平和の達成を可能にすると思うからであります。」

「民衆同士の連帯を欠いた単なる政府間協定が、一夜にして崩れ去り、武力衝突の悲劇へと逆転した歴史を、われわれ人類は何回となく経験してきたのであります。同じ過ちを繰り返してはなりません」

ここで彼は、歴史のうえで長年培われてきた「民族的敵意」の問題に触れた。そして、「民族的敵意などというものは、正体のない幻である」と断言したのである。

「いかに抜きがたい歴史的対立の背景が存しようとも、現代に生きる民衆が過去の憎悪を背負う義務は全くないのであります。相手の中に"人間"を発見した時こそ、お互いの間に立ちふさがる一切の障壁は瞬くうちに瓦解するでしょう。」

大事なことは、過去に縛られるのではなく、同じ人間として未来に向かって生きることなのだ。いかに解決しがたい問題

に見えようとも、人間という次元から光を照射してみるならば、そこには必ず、武力抗争によらない平和的手段が浮かび上がってくる。

人間と人間を対立させ、煽り立てる権利は、いかなる地位の人間にも断じてないーーそれが山本伸一の確信であり、信念であった。

ここで伸一は、東洋文化圏と西洋文化圏の交流だけでなく、先進国といわれる「持てる北の諸国」と発展途上にある「持たざる南の諸国」の関係、いわゆる「南北」の交流にも言及していった。


太字は 『新・人間革命』第21巻より 抜粋


新世界 三指針

『新・人間革命』 新世界 P127

世界平和への旅立ち 
第2の訪問地 サンフランシスコ


サンフランシスコは 日本と連合国との講和条約と
日米安保条約の調印の地である。


山本伸一は
サンフランシスコと ネバダに 地区を 結成した。
ネバダでは アメリカ人の夫を地区部長に 任命。
1960年 10月 日系人以外で 初の 地区部長の誕生である。


伸一は 言葉も通じないアメリカの地で、悲しみと失意に沈み、
「日本に帰りたい」と悲哀が にじみ出る婦人たちに
生きる勇気を与えるため、3指針を提案する。


1.アメリカの市民権を取得し、良き市民となること
2.自動車の運転免許をとること
3.英語のマスターをすること


そんな提案を 想像もしていなかった婦人達に 伸一は、

「大変なことを要求しているように思われるかもしれませんが、
アメリカの広布を担うのは、皆さん方しかありません。
ご婦人の皆さんの中には・・・、とても自分には 無理であると
思っている方もおられるでしょう。しかし、まず、
“必ずできる”“やるぞ”と決めて挑戦し、努力してみてください。
皆さんならできます。・・・」


湿った薪を燃え上がらせるように 満身の情熱を注ぐ伸一。
ユーモアを交えながらの伸一の言葉に 笑いが起きた。


笑いが皆の心に のしかかっていた重さを吹き払い、
希望を芽吹かさせた。


“そうだ、やってできないことはない!”


皆そんな気がしてくるのだった。



この3指針は アメリカの同士の誓いの3指針となっていった



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