『新・人間革命』第30巻(下) 誓願の章 392p
太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
日蓮大聖人に対して、「四箇の格言」などをもって、排他的、独善的であるとする見方がある。
しかし、大聖人は、他宗の拠り所とする経典そのものを、否定していたわけではない。御書を拝しても、諸経を引いて、人間の在り方などを説かれている。法華経は、「万人成仏」の教えであり、生命の実相を説き明かした、円満具足の「諸経の王」たる経典である。
それに対して、他の経典は、一切衆生の成仏の法ではない。生命の全体像を説くにはいたらず、部分観にとどまっている。その諸経を絶対化して法華経を否定し、排斥する本末転倒を明らかにするために、大聖人は、明快な言葉で誤りをえぐり出していったのだ。
それは、ひとえに民衆救済のためであった。それに対して、幕府と癒着していた諸宗の僧らは、話し合いを拒否し、讒言をもって権力者を動かし、大聖人に迫害を加え、命も奪おうとしたのである。それでも大聖人は、自身に大弾圧を加えた国主や僧らを、最初に成仏に導いてあげたいと言われている。
人びとを救おうとする、その心こそが、私たちの行動の大前提なのである。自身の信ずる宗教に確信と誇りをもち、その教えを人びとに語ることは、宗教者として当然である。しかし、そこには、異なる考え、意見に耳を傾け、学び、より良き生き方をめざしていこうとする謙虚さと向上心がなければなるまい。
現代における宗教者の最大の使命と責任は、「悲惨な戦争のない世界」を築く誓いを固め、人類の平和と幸福の実現という共通の根本目的に立ち、人間と人間を結んでいくことである。そして、その目的のために、各宗教は力を合わせるとともに、初代会長・牧口常三郎が語っているように、「人道的競争」をもって切磋琢磨していくべきであろう。
1996年(平成8年)、山本伸一は三月に香港を訪問し、5月末から7月上旬には、北・中米を訪れた。アメリカでは、6月8日にコロラド州のデンバー大学から、名誉教育学博士号を授与されている。
伸一は、24日からキューバ文化省の招聘で、同国を訪問することになっていた。キューバは、このころ、経済的にも、政治的にも、厳しい試練の渦中にあった。東西冷戦が終わり、ソ連・東欧の社会主義政権が崩壊したことによって、キューバはソ連という強力な後ろ盾を失い、孤立を深めていた。
“だからこそ、世界の平和を願う一人として、キューバへ行かねばならない。そこに、人間がいるのだから…”24日午後、カリブ海のバハマを初訪問した。このころ、アメリカからキューバへの直行便はなく、第三国を経由しなければ出入国はできなかった。
山本伸一たちは、キューバが差し向けたソ連製の飛行機でホセ・マルティ国際空港へ向かった。25日、国立ハバナ大学を訪問した。ここで、文化大臣から国家勲章「フェリックス・バレラ勲章勲一等」が贈られた。次いで、ハバナ大学からの「栄誉人文学博士号」の授与式が行われ、引き続き伸一が記念講演をすることになっていた。
この夜、彼は、フィデル・カストロ国家評議会議長と、革命宮殿で会見した。スーツにネクタイを締めて、笑顔で迎えてくれた。平和と友好の意志を感じた。カストロ議長は、一行を心から歓迎し、相互理解を図るために、キューバと日本の交流を積極的に行いたいと明言した。2007年には、キューバ創価学会が正式に宗教法人となった。
6月26日、山本伸一は、キューバに続いて、コスタリカを初めて訪れた。28日には中南米で初の開催となる「核兵器ーー人類への脅威」展の開幕式が行われた。これには大統領夫妻、ノーベル平和賞を受賞したオスカル・アリアス・サンチュ元大統領らが出席した。
1997年2月、伸一は、香港を訪れ、5月には第10次の訪中をし、10月にインドを訪問した。日々、限りある時間との闘争であった。98年は、フィリピン、香港、韓国へ。200年はシンガポール、マレーシア、香港を歴訪。シンガポールでは、ナザン大統領と対統領官邸で会見した。
ナザン大統領は、学会の青年部への賛辞を惜しまなかった。「私は何度も、シンガポール創価学会の演技を見てきました。青年が主体者として参加している。演技には、仏法の教えが体現されています。シンガポールの社会においても、人間的な質が、一段と大事になってきています。その意味でも、創価学会は、社会と国家に、すばらしい貢献をしてくださっています」
伸一は学会への信頼と期待がここまで社会に広がり、後継の青年たちが賞賛されていることが、何よりも嬉しかった。時代を担う青年たちの成長こそが、弟子の勝利こそが、自身の喜びであり、楽しみであり、希望であるーーそれが師の心である。それが師弟の絆である。
現代における宗教者の最大の使命と責任は、「悲惨な戦争のない世界」を築く誓いを固め、人類の平和と幸福の実現という共通の根本目的に立ち、人間と人間を結んでいくことである。そして、その目的のために、各宗教は力を合わせるとともに、初代会長・牧口常三郎が語っているように、「人道的競争」をもって切磋琢磨していくべきであろう。
1996年(平成8年)、山本伸一は三月に香港を訪問し、5月末から7月上旬には、北・中米を訪れた。アメリカでは、6月8日にコロラド州のデンバー大学から、名誉教育学博士号を授与されている。
伸一は、24日からキューバ文化省の招聘で、同国を訪問することになっていた。キューバは、このころ、経済的にも、政治的にも、厳しい試練の渦中にあった。東西冷戦が終わり、ソ連・東欧の社会主義政権が崩壊したことによって、キューバはソ連という強力な後ろ盾を失い、孤立を深めていた。
“だからこそ、世界の平和を願う一人として、キューバへ行かねばならない。そこに、人間がいるのだから…”24日午後、カリブ海のバハマを初訪問した。このころ、アメリカからキューバへの直行便はなく、第三国を経由しなければ出入国はできなかった。
山本伸一たちは、キューバが差し向けたソ連製の飛行機でホセ・マルティ国際空港へ向かった。25日、国立ハバナ大学を訪問した。ここで、文化大臣から国家勲章「フェリックス・バレラ勲章勲一等」が贈られた。次いで、ハバナ大学からの「栄誉人文学博士号」の授与式が行われ、引き続き伸一が記念講演をすることになっていた。
この夜、彼は、フィデル・カストロ国家評議会議長と、革命宮殿で会見した。スーツにネクタイを締めて、笑顔で迎えてくれた。平和と友好の意志を感じた。カストロ議長は、一行を心から歓迎し、相互理解を図るために、キューバと日本の交流を積極的に行いたいと明言した。2007年には、キューバ創価学会が正式に宗教法人となった。
6月26日、山本伸一は、キューバに続いて、コスタリカを初めて訪れた。28日には中南米で初の開催となる「核兵器ーー人類への脅威」展の開幕式が行われた。これには大統領夫妻、ノーベル平和賞を受賞したオスカル・アリアス・サンチュ元大統領らが出席した。
1997年2月、伸一は、香港を訪れ、5月には第10次の訪中をし、10月にインドを訪問した。日々、限りある時間との闘争であった。98年は、フィリピン、香港、韓国へ。200年はシンガポール、マレーシア、香港を歴訪。シンガポールでは、ナザン大統領と対統領官邸で会見した。
ナザン大統領は、学会の青年部への賛辞を惜しまなかった。「私は何度も、シンガポール創価学会の演技を見てきました。青年が主体者として参加している。演技には、仏法の教えが体現されています。シンガポールの社会においても、人間的な質が、一段と大事になってきています。その意味でも、創価学会は、社会と国家に、すばらしい貢献をしてくださっています」
伸一は学会への信頼と期待がここまで社会に広がり、後継の青年たちが賞賛されていることが、何よりも嬉しかった。時代を担う青年たちの成長こそが、弟子の勝利こそが、自身の喜びであり、楽しみであり、希望であるーーそれが師の心である。それが師弟の絆である。