『新・人間革命』第30巻(下) 誓願の章 364p
伸一はアルゼンチンの首都ブエノスアイレスに到着した翌日の15日、アルゼンチン代表者会議に出席した。伸一は、アルゼンチンの同志が一人も漏れなく「不屈の勝利王」であってほしかった。
16日、伸一は、ブエノスアイレスの大統領公邸に、カルロス・サウル・メネム大統領を表敬訪問した。今回の南米訪問では、各国で国家指導者等の会見や記念の式典が、間断なく続くことになる。そのスペイン語の通訳・翻訳を見事に務めたのが、アルゼンチン出身の女子部の友たちであった。
彼女たちは、日系人の両親のもと、アルゼンチンで育った。少女時代に、鼓笛隊の活動を通して、信心を学び、“人びとの幸せのために、広布のために生きたい”との思いを深めていった。そして、アルゼンチンの国立大学や、国費留学生として日本の大学で懸命に勉学に励む一方、語学の習得にも力を注ぎ、SGIの公認通訳となったのである。
16日の夜、伸一は、アルゼンチンの上院、ならびに下院を訪問した。上院では、伸一「平和への不断の活動」に、下院では彼の「『世界の諸民族の平和』への闘争」に対して特別表彰が行われた。地球の反対側にあって、伸一の発言に耳を傾け、その行動を注視してきた人びとがいたのだ。
これもアルゼンチンの同志が、誠実に対話を重ね、信頼を広げてきたからこそである。彼は、メンバーの奮闘に心から感謝し、その栄誉を、皆と分かち合いたい思った。
上院議長は、語らいのなかで、アルゼンチン議会で、伸一の平和提言などをもとにして、法律を作ったたことを伝えた。それは、新たに「平和の日」を設け、アルゼン チンの小学・中学・高校等で、平和について学び合い、諸行事を行うという法律である。
同法制定の理由のなかで、「ある優れた日本の思想家は、…」として「SGIの日」記念提言の一節を引用し、伸一の名を明記している。この法律は、85年8月に発布されている。SGIへの世界の期待は、余りにも大きかった。
18日夜には、第11回世界青年平和文化祭が、「民族融合の大地に希望の曲」をテーマに、男女青年部千五百人が出席して、開催された。文化祭の圧巻は、アルゼンチンタンゴの大巨匠であるオスバルド・ブグリエーセとマリアーノ・モーレスの共演であった。
ブグリエーセは、70年間のタンゴ人生を締めくくり、「もう舞台にあがることはない」と噂されていた。「タンゴの皇帝・ブグリエーセ」と「タンゴの王者・モーレス」の“夢の競演”に、青年平和文化祭は沸き返った。
山本伸一の平和旅は続いた。1993年(平成5年)2月20日、伸一の広布の舞台は、パラグアイへと移った。空港では、首都アスンシオン市の市長から、歓迎の「市の紋章」の盾が贈られた。
移住した日系人から始まった広布であり、そこには、計り知れない苦労があったにちがいない。パラグアイの同志は、決して多いとはいねないが、メンバーは、日本からの移住者をはじめ、皆が勤勉に努力を重ね、社会に深く信頼の根を張り巡らせてきた。
今回の伸一の訪問を歓迎し、郵政局では、彼の滞在期間中、すべての郵便物に「SGI」の消印を押すことを決定した。「SGI会長の訪問は、国家諸機関及び関係団体が、敬意と共鳴を表すべきものである」としていた。同志の地道な社会貢献の結実といえよう。
パラグアイSGI総会の席上、伸一は、「諸天は、勇気ある人を守る!」と訴え、一人立つことの大切さを語った。信仰という赫々たる太陽を燃やしながら自分の周囲に、わが地域に、希望と蘇生の大光を送り、友情と励ましの人間共和の連帯を築き上げていくーーそこにこそ、広宣流布の確かな軌道があり、世界最先端のSGIの運動の意義もある。
「何があろうが一喜一憂するのではなく、『生涯』という視野に立って、悠然と進んで行くことです。また、お子さん方にとっては、今は勉強が仕事です。信心の基本だけは、きちんと学びながら、徹底して『勉学第一』で進むことが、『信心即生活』となります。
信心の継承といっても、信仰は、子ども自身が選択していく問題です。要は、『大変な時には真剣に唱題すれば、必ず乗り越えられる』ということを、しっかりと示し、教えていくことです。あとは、いたずらに神経質になることなく、伸び伸びと成長させていただきたいのであります」
22日、伸一は大統領府にロドリゲス大統領を表敬訪問した。その後、パラグアイの外務省を訪れた。同国の「国家功労大十字勲章」の授賞式に出席するためである。そして、23日夕、彼は、次の訪問地のチリへと向かったのである。
太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
伸一はアルゼンチンの首都ブエノスアイレスに到着した翌日の15日、アルゼンチン代表者会議に出席した。伸一は、アルゼンチンの同志が一人も漏れなく「不屈の勝利王」であってほしかった。
16日、伸一は、ブエノスアイレスの大統領公邸に、カルロス・サウル・メネム大統領を表敬訪問した。今回の南米訪問では、各国で国家指導者等の会見や記念の式典が、間断なく続くことになる。そのスペイン語の通訳・翻訳を見事に務めたのが、アルゼンチン出身の女子部の友たちであった。
彼女たちは、日系人の両親のもと、アルゼンチンで育った。少女時代に、鼓笛隊の活動を通して、信心を学び、“人びとの幸せのために、広布のために生きたい”との思いを深めていった。そして、アルゼンチンの国立大学や、国費留学生として日本の大学で懸命に勉学に励む一方、語学の習得にも力を注ぎ、SGIの公認通訳となったのである。
16日の夜、伸一は、アルゼンチンの上院、ならびに下院を訪問した。上院では、伸一「平和への不断の活動」に、下院では彼の「『世界の諸民族の平和』への闘争」に対して特別表彰が行われた。地球の反対側にあって、伸一の発言に耳を傾け、その行動を注視してきた人びとがいたのだ。
これもアルゼンチンの同志が、誠実に対話を重ね、信頼を広げてきたからこそである。彼は、メンバーの奮闘に心から感謝し、その栄誉を、皆と分かち合いたい思った。
上院議長は、語らいのなかで、アルゼンチン議会で、伸一の平和提言などをもとにして、法律を作ったたことを伝えた。それは、新たに「平和の日」を設け、アルゼン チンの小学・中学・高校等で、平和について学び合い、諸行事を行うという法律である。
同法制定の理由のなかで、「ある優れた日本の思想家は、…」として「SGIの日」記念提言の一節を引用し、伸一の名を明記している。この法律は、85年8月に発布されている。SGIへの世界の期待は、余りにも大きかった。
18日夜には、第11回世界青年平和文化祭が、「民族融合の大地に希望の曲」をテーマに、男女青年部千五百人が出席して、開催された。文化祭の圧巻は、アルゼンチンタンゴの大巨匠であるオスバルド・ブグリエーセとマリアーノ・モーレスの共演であった。
ブグリエーセは、70年間のタンゴ人生を締めくくり、「もう舞台にあがることはない」と噂されていた。「タンゴの皇帝・ブグリエーセ」と「タンゴの王者・モーレス」の“夢の競演”に、青年平和文化祭は沸き返った。
山本伸一の平和旅は続いた。1993年(平成5年)2月20日、伸一の広布の舞台は、パラグアイへと移った。空港では、首都アスンシオン市の市長から、歓迎の「市の紋章」の盾が贈られた。
移住した日系人から始まった広布であり、そこには、計り知れない苦労があったにちがいない。パラグアイの同志は、決して多いとはいねないが、メンバーは、日本からの移住者をはじめ、皆が勤勉に努力を重ね、社会に深く信頼の根を張り巡らせてきた。
今回の伸一の訪問を歓迎し、郵政局では、彼の滞在期間中、すべての郵便物に「SGI」の消印を押すことを決定した。「SGI会長の訪問は、国家諸機関及び関係団体が、敬意と共鳴を表すべきものである」としていた。同志の地道な社会貢献の結実といえよう。
パラグアイSGI総会の席上、伸一は、「諸天は、勇気ある人を守る!」と訴え、一人立つことの大切さを語った。信仰という赫々たる太陽を燃やしながら自分の周囲に、わが地域に、希望と蘇生の大光を送り、友情と励ましの人間共和の連帯を築き上げていくーーそこにこそ、広宣流布の確かな軌道があり、世界最先端のSGIの運動の意義もある。
「何があろうが一喜一憂するのではなく、『生涯』という視野に立って、悠然と進んで行くことです。また、お子さん方にとっては、今は勉強が仕事です。信心の基本だけは、きちんと学びながら、徹底して『勉学第一』で進むことが、『信心即生活』となります。
信心の継承といっても、信仰は、子ども自身が選択していく問題です。要は、『大変な時には真剣に唱題すれば、必ず乗り越えられる』ということを、しっかりと示し、教えていくことです。あとは、いたずらに神経質になることなく、伸び伸びと成長させていただきたいのであります」
22日、伸一は大統領府にロドリゲス大統領を表敬訪問した。その後、パラグアイの外務省を訪れた。同国の「国家功労大十字勲章」の授賞式に出席するためである。そして、23日夕、彼は、次の訪問地のチリへと向かったのである。