『新・人間革命』第30巻(下) 誓願の章 310p

広宣流布を願う創価学会員の信心が、宗門を支え、総本山を大興隆させてきたのだ。学会は、総本山整備にも、最大の力を注いできた。戸田第二代会長の時代には、奉安殿、大講堂を建立寄進し、山本伸一が就任してからは、大坊、大客殿、正本堂をはじめ、総門、宿坊施設など、総本山の建物や施設を寄進した。

総本山所有の土地も、農地改革直後は、5万1千余坪にすぎなかったが、かつての23倍の117万余坪になった。その土地も、大半が学会からの寄進であった。こうした長年の外護の赤誠に対しても、学会員の真心の御供養に対しても、登山会の無事故の運営のために、止暇断眠して挺身してきた青年たちの苦労に対しても、一言のあいさつも感謝もなく、添書登山が始まったのである。

1991年(平成3年)7月、宗門は学会を辞めさせて寺の檀徒にする「檀徒づくり」を、公式方針として発表した。戸田城聖は、宗門の本質を鋭く見抜き、「宗門は金を持てば、学会を切るぞ!」と語っていた。その通りの暴挙に出たのだ。

仏法上、最も重罪となる五逆罪の一つに、仏の教団を分裂混乱させる「破和合僧」がある。この大重罪を犯したのだ。それは、供養を取るだけ取って切り捨てるという、冷酷、卑劣な所業であった。

また、宗門は、大聖人の教えと異なる「法主信仰」の邪義を立て、法主を頂点とした衣の権威によって、信徒を支配しようと画策していった。

しかし、その悪らつさと、時代錯誤の体質は、既に学会員から見破られていたのだ。日顕が、先祖代々の墓を福島市にある禅宗寺院の墓地に建立し、開眼法要を行っていたことがあきらかになった。”さんざん学会を謗法だなどと言っておきながら、こんなことまでやっていたのか“と、皆が呆れ果てたのである。

また、宗門の数々の腐敗堕落の実態も、次々と知られるようになっていった。これでは、もはや、日蓮大聖人の仏法ではない。日興上人の御精神は途絶え、富士の清流は、悲しいかな濁流と化してしまった。

今回の第二次宗門事件では、同志は陰険にして悪辣な宗門の謀略を冷静に見抜き、破邪顕正の情熱をたぎらせて、敢然と戦った。伸一は、会長を辞任した、あの第一次宗門事件の折、“もう一度、広宣流布の使命に生きぬく師弟の絆で結ばれた、強靭な創価学会を創ろう”と、同志一人ひとりに徹して光をあててきた。

“皆が一人立つ勇者になってほしい”と、広宣流布の魂を注ぐことに必死であった。そのなかで、後継の青年たちも見事に育ち、いかなる烈風にも微動だにしない、金剛不壊の師弟の絆で結ばれた、大創価城が築かれていったのである。しかも、その師弟の精神は、広く世界の同志の心を結んでいった。

創価の同志が心を一つにして、日顕ら宗門による弾圧を、乗り越えていく力になったのが、1989年(平成元年)8月24日から始まった、衛星中継であった。この時から、全国の主要会館の大画面に、映像も流れることになったのである。衛星中継を通して同志は、深く、正しく、問題の真実と本質を知った。

そして、“何があっても、腐敗した宗門の策略などに負けず、共々に広布に走り抜こう!”と、皆の心は、固く、強く、一つに結ばれたのである。

1991年11月8日、宗門から「創価学会解散勧告書」なる文書が届いた。差出人は、管長・阿部日顕、総監・藤本日潤である。そこには、僧と信徒の間には、師匠と弟子という筋目の上から厳然と差別があり、学会が法主や僧を師と仰がず、平等と主張することは、「僧俗師弟のあり方を破壊する邪見」などとして、創価学会並びに、すべてのSGI組織を解散するよう勧告してきたのである。

しかし、そもそも創価学会は、昭和27年に、既に宗門とは別の宗教法人となっているのだ。第二代会長・戸田城聖の先見の明によるものである。この英断によって正義の学会は厳然と守られたのだ。宗門は、法的にも解散を勧告できる立場ではなく、なんの権限もないのだ。

学会員は、解散勧告書の内容に失笑した。「大事なのは、何をしてきたかだ。だいたい、折伏をしたことも、個人指導に通い詰めて信心を奮い立たせたこともほとんどない、遊びほうけてばかりいる坊主が、どうやって、こうるに生き抜いてきた学会員を指導するつもりなんだ!」

葬儀や塔婆供養等を利用した貪欲な金儲け主義、腐敗・堕落した遊興等の実態。誠実に尽くす学会員を隷属させ、支配しようと、衣の権威をかざして、「謗法」「地獄へ落ちる」などと、繰り返エされた脅しーー同志は、“こんなことが許されていいわけがない。”との思いを深くしてきた。そして、“何のための宗教か”“誰のための教えなのか”と声をあげ始めたのである。



太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋