『新・人間革命』第30巻(上) 暁鐘の章(前半) 356p

伸一の一行はフランクフルト市内にある「ゲーテの家」を訪れた。伸一は、文豪たちの住居を訪ね、その生活環境を知ることで、人間像と作品への洞察をさらに深め、機械があれば、青年たちに人物論や作品論を講義したいと考えていたのだ。

トルストイもゲーテも、当時としては、かなりの長寿であり、共に82歳で他界するが、生涯、ペンを執り続けた。伸一は、今、自分は53歳であることを思うと、まだまだ若いと感じた。“人生の本格的な闘争は、いよいよこれからである。世界広布の礎を築くため、後継の青年たちの活躍の舞台を開くために、命ある限り行動し、ペンを執り続けなければならない”と、自らに言い聞かせた。

22日、フランクフルトを発って約二時間半、山本伸一たちの一行は、東欧の社会主義国であるブルガリア人民共和国の首都ソフィアの空港に到着した。この訪問はブルガリア文化委員会の招聘によるものであり、伸一にとっては初めてのブルガリアであった。

N・ババゾフ議長を訪ねた。議長は病後で、健康が懸念された。伸一は、両国の交流に全力を尽くすことを述べて、辞去しようとイスから立った。議長は両手を出して止めようとする。何か必死なものが感じられた。「駐日大使の時代から、山本先生にわが国に来ていただくことを、強く望んでおりました。

わが国は、バルカン半島にあって交通の要路にあたり、文明の交差点となってきました。それゆえに、古くから戦いが繰り返され、辛酸もなめました。ですから、世界平和の実現は、私の、いやすべてのブルガリア人の悲願なんです。それだけに平和のために戦ってこられた先生の行動に期待を寄せ、大きな成果を収められるように望んでおります」

午後、ソフィア大学を訪問した。この日、大学から伸一に、名誉教育学・社会学博士の学位が贈られ、彼は記念講演を行うことになっていた。式典では、I・アポストロワ哲学部長が推挙の辞を述べたあと、I・ディミトロフ総長が立ち、古代ブルガリア語で認められた名誉博士の学位記を伸一に手渡し、握手を交わした。

集っていた学部長や教授など、約百人の参加者から、盛んな拍手が起こった。引き続いて、「東西融合の緑野を求めて」と題する伸一の講演となった。彼は、ブルガリアは、地理的にも、歴史的にも、精神面においても、“西”と“東”とが交わり、拮抗してきた大地であり、西洋文明と東洋文明を融合・昇華させ、新たな人類社会を構築していくカギともいうべき可能性があることを訴えた。

最後に、ブルガリアのシンボルが獅子であることに触れ、自分も一仏法者として獅子のごとく、人びとの幸福と平和のために世界を駆け巡っていきたいと決意を披歴。

記念講演を終えた山本伸一が訪れたのは、文化宮殿であった。今回の招聘元である文化委員会のリュドミーラ・ジフコワ議長(文化大臣)と会談するためである。伸一は、メキシコを訪問した折、ジフコワ議長が偶然にも同じホテルに宿泊していることがわかり、会っていた。

「文化は橋です。国と国だけでなく、体制と体制の間にも橋を架けてくれます。私は文化で戦争と戦いたいのです」彼女の断固たる言葉に、伸一は、美しき花を貫く芯を見る思いがした。「芯」とは、生き方の哲学であり、信念といえよう。

22日、山本伸一たちは、ブルガリア国家評議会に、国家元首であるジフコフ議長を表敬訪問した。そして、黒海の汚染が進みつつあることを憂慮していた伸一は、沿岸諸国が協力し、浄化を進めていくことを提案した。

黒海の海はつながっている。しかし、沿岸諸国の背景にある東西両陣営の対立が、国と国との結束を阻み、環境破壊を放置させる結果になっているのだ。イデオロギーが人間の安全に優先するーーその転倒を是正する必要性を訴え、伸一は世界を巡ってきたのである。

伸一は、23日夕刻、ジフコワ議長の招きを受け、「文化の日」の前夜祭として行われた「平和の旗」の集いに出席した。「平和の旗」の集いは、1979年(昭和54年)の「国際児童年」を記念して始まったものである。

24日には、ブルガリア建国千三百年を祝賀する「文化の日」のパレードが、盛大に行われた。伸一も招待され、ブルガリアの政府閣僚らと共に、この祭典に出席した。翌25日、伸一の一行はブルガリアを発った。



太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
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