『新・人間革命』第30巻(上) 雄飛の章 237p

<雄飛の章 開始>

1980年(昭和55年)4月21日の午後、山本伸一たち第5次訪中団一行は、北京の空港に到着した。この訪中は、伸一が会長を辞任して以来、初めての海外訪問であった。空港で一行を出迎えた中日友好協会の孫平化副会長が、伸一に語り始めた。

「北京は、この2、3日『黄塵万丈』だったんですよ」伸一は、つかの間、日本国内での学会を取り巻く状況を思った。“宗門の若手僧たちは、異様なまでの学会攻撃を繰り返している。まさに「黄塵万丈」といえる。しかし、こんな状態が、いつまでも続くわけがない。これを勝ち越えていけば、今日の青空のような、広宣流布の希望の未来が開かれていくにちがいない

翌22日、伸一たちは、鄧頴超の招きを受け、中南海の自宅「西花庁」を訪れた。人民大会堂で行われた歓迎宴でも、周恩来の生き方が話題となり、鄧頴超は、総理の遺灰を飛行機から散布したことについて語った。胸を打たれる話であった。

遺骨を保存すれば、廟などの建物を造ることになり、場所も、労働力も必要となる。それでは、人民のために奉仕することにはならない。しかし、大地に撒けば、肥料となり、少しでも人民の役に立つこともできる。ところが、中国の風俗、習慣では、それは到底受け入れがたいことであり、実行することは、まさに革命的行動であった。

一行は、北京大学を訪問し、創価大学との学術交流に関する議定書の調印が行われ、その際、北京大学から、伸一に名誉教授の称号授与の決定が伝えられた。伸一は、謝意を表したあと、この日を記念し、「新たな民衆像を求めてーー中国に関する私の一考察」と題する講演を行った。

講演に引き続き、四川大学への図書贈呈式が行われた。23日午前には、敦煌文物研究所の常書鴻所長夫妻と会談した。この日の、伸一と常書鴻の語らいは弾み、心はとけ合った。二人は7回の会談を重ねることになる。90年には、それまでの意見交換をまとめ、対談集『敦煌の光彩ーー美と人生を語る』が発刊されている。

1990年富士美術館で、常書鴻の絵画展が開催された。特別出品されていた「チョモランマ峰」と題する、縦3m余、横5m余の大絵画である。絵は、常書鴻が夫人の李承仙と共に描いた不朽の名作である。文化大革命の直後、満足に絵具もない最も困難な時期に「二人で文化の世界の最高峰をめざそう」と誓い、制作したものだ。

彼は、この労苦の結晶ともいうべき超大作を、伸一に贈りたいと語った。この絵を制作した文革の時代は、絵の具の品質が良くないので、末永く絵を残すために、描き直したいとの話があった。伸一は、その心遣いに恐縮した。

中国共産党中央委員会の華国鋒主席と会見したのは、24日の夕刻であった。会見の席で華国鋒主席は、10億を超える中国人民の衣食住の確保、とりわけ食糧問題が深刻な課題であるとし、まず国民経済の基礎になる農業の確立に力を注ぎたいと述べた。

4月25日、訪中団一行は、桂林市を訪ねた。「漓江煙雨」といって、煙るような雨の漓江が一番美しいという。だが、桂林の景観が醸し出す詩情に浸りながらも、話題は、現実の国際情勢に及んだ。前年末に、ソ連がアフガニスタンに侵攻したことから、ソ連への非難の声が中国国内でも高まっていた。

そして、伸一がソ連へも友好訪問や要人との対話を重ねていることに対して、快く思わぬ人もいたのである。伸一は、こう言われた。「中国と日本に金の橋を架けたあなたがソ連へ行けば、中日の関係は堅固なものになりません。行かないようにしてほしい」

「皆さんのお気持ちはわかります。しかし、時代は大きく変化しています。大国が争い憎み合っている時ではありません。“互いのよいところを引き出し合いながら調和していこう”“人間が共に助け合って、新しい時代をつくっていこう”ーーそういう人間主義こそが、必要になってくるのではないでしょうか」

彼は懸命に訴えたが、なかなか納得してもらうことはできなかった。すぐに、中国とソ連と、どっちが大事なのかといった話に戻ってしまうのである。「私は中国を愛しています。中国が大事です。同時に、人間を愛します。人類全体が大事なんです。両国が仲良くなってもらいたいのです。私の考えは、いつか必ずわかっていただけるでしょう」彼の率直な思いであり、信念であった。粘り強い行動こそが不可能を可能にする。


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
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