『新・人間革命』第30巻(上) 雌伏の章 144p~

いかなる権威、権力をもってしても、師弟の心の絆を断つことなど断じてできない。退転・反逆者や宗門僧は、創価の師弟を分断しようと、伸一が会合で指導したり、「聖教新聞」に登場したりできないように、陰で画策を進めてきた。その逼塞した状況のなかで、学会のなかに、暗い空気がつくられていた。

伸一は、大きな会合への出席を制約されれば、家庭訪問、個人指導に奔走した。会合での話をするなというのであれば、和歌や俳句を詠み、ピアノを弾いて激励した。

伸一は、入会32周年となる8月24日を、長野研修道場で迎えた。新しい決意で出発を誓い、真剣に勤行した。昼過ぎには、青年たちと自転車で周辺を回った。戸田城聖が最後の夏を過ごした地を巡ることで、在りし日の恩師を偲びたかったのである。

この日の夕刻も、伸一は、地元の同志の家を訪問し、集った人たちと懇談した。彼は、制約のあるなかで、どうすれば同志を励まし、勇気づけることができるか、祈りに祈り、智慧を絞った。広宣流布への強き一念と祈りがあるかぎり、いっさいの障壁を打ち砕き、必ず勝利の道を切り開いていくことができるのだ。

伸一は、佐久市の功労者宅を訪問するため、長野研修道場を出発した。50分ほどで、佐久市の石塚勝夫の家に着いた。石塚は40過ぎの壮年で、佐久本部の本部長をしていた。石塚宅から伸一が向かったのは、蔵林龍臣の家であった。蔵林家は江戸初期から庄屋を務めた旧家であり、母屋は築350年で、地元では「鶯館」と呼ばれているという。

蔵林家では、主の龍臣と妻の吉乃の孫たち10人が、琴やハーモニカ、横笛の演奏、合唱などで、伸一たちを歓迎した。子どもから孫へと信心が受け継がれ、すくすくと育っている未来っ子の姿が微笑ましかった。仏法が、地域へ、社会へと広まり、そして子どもたちへ、未来へと継承されていってこそ、広宣流布の流れが創られていく。

26日は、長野研修道場での記念撮影の日である。「希望する方は、全員、参加してください」との連絡を聞いて、長野全県から同志が研修道場に集ってきた。伸一が、ほとんど「聖教新聞」にも登場しなくなってから4か月近くになっていた。皆、ひと目でも伸一と会いたかった。そして、広宣流布への誓いを新たにしたかったのである。

学会の強さは、伸一が会員一人ひとりと結んできた師弟の糸と、同志の糸によって縒りあげられた、団結の絆にこそある。長野研修道場には、三台の撮影台が設置されていた。80代半ばだという老婦人には、力強く、こう語った。「21世紀まで生きて、広宣流布の未来を見届けてください。学会は、さらに大発展します。世界に大きく広がります。私は今、そのための戦いを開始したんです」

壮年には、断固たる口調で宣言した。「学会の正義は、必ずや明確になります。また、宗門僧による理不尽な攻撃や、一部の週刊誌による無責任な批判が続いていますが、そんなことで心が揺らげば、必ず後悔します。日蓮大聖人の仰せのままに広宣流布してきたのは学会しかありません。この厳たる事実を絶対に見失わないことです。戦おう!」

「師匠が表に出て動けないならば、師に代わって立ち上がるのが弟子です。私と会えなければ元気が出ない、勇気も湧かないというのであれば、真の師弟ではない。師をしのぐ果敢な実践をもって、広宣流布の未曽有の上げ潮をつくっていくんです。

私が君たちを指導・激励し、全力を注いで育成してきたのは、こうした時のためです。今こそ、『私たちに任せてください!弟子の戦いを見てください!』と胸を張り、私に代わって同志を励まし、元気づけていくのが師弟だ!君たち一人ひとりが山本伸一なんだよ!

私は、肝心な時に力を発揮できないような弱虫を育ててきた覚えはありません。今こそ君たちが、学会を、それぞれの地域を担っていくんだ。その重要な時に感傷的になって、力を出せないことほど、情けない話はありません。それが、今の私の思いだ。魂の叫びです。頼んだよ!」

記念撮影が終わったのは、午後4時近かった。撮影回数は30回ほどになり、一緒にカメラに収まった人は三千人を超えた。


太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
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