『新・人間革命』第30巻(上) 雌伏の章 132p~
この夏、世界41か国3地域のSGIメンバー1300人が来日していた。伸一は、SGI会長として出席し、メンバーを激励した。全世界から、求道の心を燃やし、喜々として集ってきた同志を目の当たりにして、伸一は、いよいよ世界広布の新時代が到達したとの思いを強くするのであった。
太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋8月20日の午後、山本伸一は、長野県・軽井沢町の長野研修道場へ向かった。軽井沢は、戸田城聖が逝去前年の1957年8月に訪れ、最後の夏を過ごした地である。戸田は、伸一と森川一正を招き、鬼押出しに車を走らせて、奇岩の連なる景観を見せ、ホテルで共に食事をした。大阪事件で不当逮捕された伸一を、ねぎらいたかったのである。
師弟の語らいは弾み、話題は、戸田が「妙悟空」のペンネームで執筆した小説『人間革命』に及んだ。戸田は、「巌窟王」のごとく臥薪嘗胆し、軍部政府の弾圧で殉教した師の敵を討つことを深く心に誓ったのだ。その復讐とは、恩師の正義を証明することであった。師の正義を宣揚し抜いていくことこそ、弟子に課せられた責務にほかならない。
伸一は、深く心に期すことがあった。ーー戸田の『人間革命』は、彼の分身ともいうべき「巖さん」が、獄中で、生涯を広宣流布に生き抜く決意をしたところで終わる。
1945年(昭和20年)7月3日、戸田は、獄死した師の牧口常三郎の意志を受け継ぎ、生きて獄門を出る。その後、戸田が現実に何を成し遂げ、いかにして日本の広宣流布の基盤を築き上げたかーー伸一は、それを書き残さなければ、師の偉業を宣揚することも、牧口と戸田を貫く創価の師弟の精神を後世に伝えることもできないと思った。
伸一は、“先生の真実を記すことができるのは、私しかいない。また、それが先生の私への期待であり、弟子としての私の使命であろう”この時、彼は、これまでに何度か考えてきた、戸田の『人間革命』の続編ともいうべき伝記小説の執筆を、確固不動の決意としたのだ。長野県は、創価の師弟の精神を永遠ならしめる誓いの天地となったのである。
戸田が最後の夏を過ごした地を、世界広宣流布への新たな幕を開く最初の夏に訪れたのである。この宿縁の地から、新しい創価学会の建設に着手しようと心に決めていたのだ。
長野県長の斉田高志と握手を交わしながら語っていった。「地涌の菩薩の使命を自覚するならば、どんなに動きを拘束され、封じ込められようが、戦いの道はある。智慧と勇気の闘争だ。
大聖人は『いまだこりず候』と言われ、いかなる迫害にも屈せず、戦い抜かれたじゃないか!みんなも、生涯、何があっても、いかなる立場、状況に追い込まれようとも、広宣流布の戦いを、信心の戦いを、決してやめてはいけないよ。私は、会員の皆さんのために戦い続けます」
小諸本部の副本部長である木林隆の家を訪問した。11年前に交わした約束を果たしたのである。夜には、軽井沢支部の初代支部長・婦人部長を務めた田森寅夫と妻のタミとも語り合った。
寅夫は、一流ホテルで修業を積んだパン職人で、念願であった店舗を購入できたことなどから、信心への確信を強くし、歓喜を胸に弘教に励んでいった。
しかし、周囲には、学会に偏見をいだき、彼が信心をすることを快く思わぬ人たちが多くいた。客足も遠のいていった。学会の先輩は、確信をもって訴え、指導した。当時の学会員は、大なり小なり、こうした事態に直面した。そのなかで同志は、ますます学会活動に闘魂を燃やしていった。そして、御書を拝しては、互いに励まし合ってきたのである。
学会活動は御書と共にあり、生活のなかに教学があった。そこに学会の崩れぬ強さがある。思えば、それは、第二代会長の戸田城聖が、『日蓮大聖人御書全集』の刊行を成し遂げたからこそ可能となったのである。
伸一は、恩師が語っていた言葉を紹介した。「戸田先生は、『将来、ここで夏季研修会を開きたいな』と、しみじみと話しておられた。ここに研修道場ができたことによって、恩師の構想実現へ、また一歩前進することができました。
やがて、長野研修道場には、全国、いや全世界の同志の代表が集うようになり、いわば、広宣流布の電源の地となっていくでしょう。それだけに、この長野県に、世界模範の創価学会を創り上げてください。私も、全力で応援します」
同志は、伸一の姿を瞼に焼きつけ、“創価の師弟の大道を誇らかに歩もう”と、決意を新たにするのであった。
師弟の語らいは弾み、話題は、戸田が「妙悟空」のペンネームで執筆した小説『人間革命』に及んだ。戸田は、「巌窟王」のごとく臥薪嘗胆し、軍部政府の弾圧で殉教した師の敵を討つことを深く心に誓ったのだ。その復讐とは、恩師の正義を証明することであった。師の正義を宣揚し抜いていくことこそ、弟子に課せられた責務にほかならない。
伸一は、深く心に期すことがあった。ーー戸田の『人間革命』は、彼の分身ともいうべき「巖さん」が、獄中で、生涯を広宣流布に生き抜く決意をしたところで終わる。
1945年(昭和20年)7月3日、戸田は、獄死した師の牧口常三郎の意志を受け継ぎ、生きて獄門を出る。その後、戸田が現実に何を成し遂げ、いかにして日本の広宣流布の基盤を築き上げたかーー伸一は、それを書き残さなければ、師の偉業を宣揚することも、牧口と戸田を貫く創価の師弟の精神を後世に伝えることもできないと思った。
伸一は、“先生の真実を記すことができるのは、私しかいない。また、それが先生の私への期待であり、弟子としての私の使命であろう”この時、彼は、これまでに何度か考えてきた、戸田の『人間革命』の続編ともいうべき伝記小説の執筆を、確固不動の決意としたのだ。長野県は、創価の師弟の精神を永遠ならしめる誓いの天地となったのである。
戸田が最後の夏を過ごした地を、世界広宣流布への新たな幕を開く最初の夏に訪れたのである。この宿縁の地から、新しい創価学会の建設に着手しようと心に決めていたのだ。
長野県長の斉田高志と握手を交わしながら語っていった。「地涌の菩薩の使命を自覚するならば、どんなに動きを拘束され、封じ込められようが、戦いの道はある。智慧と勇気の闘争だ。
大聖人は『いまだこりず候』と言われ、いかなる迫害にも屈せず、戦い抜かれたじゃないか!みんなも、生涯、何があっても、いかなる立場、状況に追い込まれようとも、広宣流布の戦いを、信心の戦いを、決してやめてはいけないよ。私は、会員の皆さんのために戦い続けます」
小諸本部の副本部長である木林隆の家を訪問した。11年前に交わした約束を果たしたのである。夜には、軽井沢支部の初代支部長・婦人部長を務めた田森寅夫と妻のタミとも語り合った。
寅夫は、一流ホテルで修業を積んだパン職人で、念願であった店舗を購入できたことなどから、信心への確信を強くし、歓喜を胸に弘教に励んでいった。
しかし、周囲には、学会に偏見をいだき、彼が信心をすることを快く思わぬ人たちが多くいた。客足も遠のいていった。学会の先輩は、確信をもって訴え、指導した。当時の学会員は、大なり小なり、こうした事態に直面した。そのなかで同志は、ますます学会活動に闘魂を燃やしていった。そして、御書を拝しては、互いに励まし合ってきたのである。
学会活動は御書と共にあり、生活のなかに教学があった。そこに学会の崩れぬ強さがある。思えば、それは、第二代会長の戸田城聖が、『日蓮大聖人御書全集』の刊行を成し遂げたからこそ可能となったのである。
伸一は、恩師が語っていた言葉を紹介した。「戸田先生は、『将来、ここで夏季研修会を開きたいな』と、しみじみと話しておられた。ここに研修道場ができたことによって、恩師の構想実現へ、また一歩前進することができました。
やがて、長野研修道場には、全国、いや全世界の同志の代表が集うようになり、いわば、広宣流布の電源の地となっていくでしょう。それだけに、この長野県に、世界模範の創価学会を創り上げてください。私も、全力で応援します」
同志は、伸一の姿を瞼に焼きつけ、“創価の師弟の大道を誇らかに歩もう”と、決意を新たにするのであった。