『新・人間革命』第30巻(上) 大山の章 111p~

「師子王は百獣にをぢず・師子の子・又かくのごとし」である。伸一は、今こそ、一人ひとりが師子のごとく、強くなってもらいたかった。伸一の落ち着いた力強い声が、場内に響いた。

1960年、5月3日、第三代会長の就任の折、心に深く刻んだ「開目抄」の一節を拝した。「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」伸一は、力説した。「このお言葉は、生涯にわたって、私並びに私どもの、信心の確固たる決意として持続していかなければならないと思いますが、皆さんはいかがでしょうか!」

伸一のあいさつに与えられた時間は、10分にも満たなかった。総会は型通りに終わった。この時、狂ったように学会を誹謗し、信徒支配を狙っていた宗門の悪僧や、背後で暗躍した邪智のペテン師らは、“計画道りだ。これでよし!”とほくそ笑んでいたにちがいない。伸一には、妬みと欲望の虜となった、その滅びゆく実像がよく見えていた。

伸一は、別室に入ると、妻の峯子に、和紙と硯、墨、筆を用意してもらった。創価学会の歴史に大きな足跡を刻むであろうこの日の、わが誓いと、弟子たちへの思いを、書として認めておきたかったのである。既に揮毫の文字は決まっていた。

ーー「大山」 その下に、「わが友よ 嵐に不動の信心たれと祈りつつ」「54年5月3日 創大にて式後記す也」と書いた。「大山」の揮毫には、伸一の魂の叫びが込められていた。

“妙法は永遠不滅である。その妙法と共に、広宣流布に生き抜くわれらには、無限の希望がある。いかなる烈風にも、大山のごとく不動であらねばならない。何を恐れる必要があろうか!学会は、日蓮大聖人の仰せ通りに死身弘法の実践を貫き、忍辱の鎧を着て進んできた。創価の師弟は、この不動の信心によって、すべてを勝ち抜いてきたのだ。”

伸一は、さらに、筆を執った。ーー「大桜」そして、下に脇書きとして記した。「わが友の功徳満開たれと祈りつつ」“どんな厳しい試練にさらされようが、仏法の因果は厳然である。全同志よ!胸に創価の「大桜」をいだいて進むのだ”と、伸一は念願した。

彼は学会本部には戻らず、横浜の神奈川文化会館へ向かった。世界につながる横浜の海から、新しい世界広宣流布の戦いを、真の師弟の戦いを起こそうと、心に決めていたのである。伸一は、ようやく一息つけた気がした。

側近の幹部が、「今朝の新聞に先生のお名前が出ておりました」と教えてくれた。それは、「読売新聞」がアメリカのギャラップ世論調査所と提携して実施した日米両国の生活意識調査の結果で、日本国民が選んだ「最も尊敬する有名な日本人」の上位20人の第6位に、伸一の名が挙がっていた。

「現存する民間人では第1位ですし、宗教界ではただ一人です」という。伸一は、この劇的な一日を振り返ると、不思議な気がした。さらに同志の大きな期待と懸命な応援のようにも感じた。

彼は、ここでも筆を執り、「共戦」と認めた。そして、“弟子よ。われと共に起て!”と心で叫びながら、脇書きに、こう記した。「54年 5月3日夜 生涯にわたり われ広布を 不動の心にて 決意あり 真実の 同志あるを 信じつつ 合掌」

5月5日、伸一は、クルーザーを所有する地元の学会員の方が、横浜港周辺を案内したいと言ってくれていると聞き、30分ほど、乗せてもらうことにした。船の名は「21世紀」号である。海から見た神奈川文化会館もまた、すばらしかった。この海は太平洋につながっているのだと思うと、21世紀の世界広布の大海原が見える気がした。彼の胸は躍った。

伸一は、前日の4日には、神奈川県の功労者の代表と懇談し、この5日も、草創の向島支部、城東支部の代表からなる向島会、城東会のメンバーと語り合い、敢闘の労をねぎらった。功労者を中心とした伸一の激励の車輪は、既に勢いよく回転を開始していたのだ。

神奈川文化会館の前にある山下公園には、連日、多くの学会員が集ってきた。そうした同志と会合をもち、力の限り、讃えたかった。しかし、今、それは許されなかった。“ならば、未来、永遠にわたる創価の魂を、後継の弟子たちに形として残そう!”

この日、彼は、広宣流布の師匠・戸田城聖の真正の弟子として、わが誓いを筆に託して、一気呵成に認めた。「正義」ーーその右下には、「われ一人正義の旗持つ也」と記した。

“いよいよ本当の勝負だ!いかなる立場になろうが、私は断じて戦う。たった一人になっても、師弟不二の心で断固として勝利してみせる。正義とは、どこまでも広宣流布の大道を進み抜くことだ!”

<大山の章 終了>

太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
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