『新・人間革命』第30巻(上) 大山の章 53p~
迎賓館で鄧頴超と会見した翌日の4月13日、山本伸一は新宿区内で、松下電器産業(後のパナソニック)の創業者である松下幸之助と懇談した。深い交友を重ねてきた松下翁にも、会長を辞任する意向であることを伝えておかなくてはと思った。
「私は、次代のため、未来のために、会長を辞任し、いよいよ別の立場で働いていこうと思っています」松下翁は、子細を聞こうとはしなかった。「そうですか。会長をお辞めになられるのですか。私は、自分のことを誇りとし、自分を賞賛できる人生が、最も立派であると思います」含蓄のある言葉であった。
この日、伸一は、神奈川県横浜市に完成した神奈川文化会館へ向かった。神奈川は、創価学会の平和運動の原点の地である。会館の前は山下公園で、その先が横浜の港である。「七つの鐘」を鳴らし終え、平和・文化の大航路を行く創価の、新しい船出を告げるにふさわしい会館であると、伸一は思った。
伸一は思った。“自分の会長辞任が発表されれば、少なからず皆は驚くにちがいない。しかし、何があろうが、いささかたりとも、信心に動揺があってはならない。そのために、不動の信心の確立を叫び抜いておかねばならない”
彼は、言葉をついだ。「学会においても、幾つかの転機があり、乗り越えるべき節があります。いかなる時でも、私たちが立ち返るべき原点は、初代会長の牧口先生が言われた“一人立つ精神”であり、広宣流布の大精神であります」
“どのような事態になろうが、創価の師弟の大道を守り抜く限り、慈折広布の前進がとどまることはない。世界の平和へ、人類の幸福へと歴史の歯車は回り、一人ひとりの桜花爛漫たる幸の人生が開かれていくーー彼は、全同志に、その確信を、断じて持ち続けてほしかったのである”
4月16日の午後、来日していたアメリカの前国務長官ヘンリー・A・キッシンジャー博士の訪問を受け、渋谷区の国際友好会館で会談した。約4年ぶりの対面である。二人は、提起し合った問題を掘り下げていくには、多くの時間を要するため、将来、もう一度、対談し、21世紀を建設するための示唆を提供していこうと約し合った。
それが実現し、1968年、2日間にわたって語らいが行われた。これに往復書簡もまじえ、月刊誌『潮』に対談が連載された。そして’89年9月、単行本『「平和」と「人生」と「哲学」を語る』として潮出版社から刊行されている。
山本伸一は、今こそ、平和の礎となる、仏法から発する生命の尊厳と平等の哲理を世界に伝え、広め、21世紀の時代精神としなければならないと決意していた。
伸一は、世界平和の実現という壮大なる目標に向かって、指導者、識者らとの対話を進める一方、一人ひとりの同志の幸福を願い、家庭訪問や個人指導に余念がなかった。“何があろうと、いかなる立場になろうと、私は尊き学会員を励まし続ける。庶民と共にどこまでも歩み続ける”ーー彼は、そう固く心に決めていたのである。
一人の人を大切にし、守り励ますことも、世界平和の建設も、同じ原点をもつ。万人が等しく「仏」であるとの、仏法の哲理と慈悲から生じる実践にほかならないからだ。
彼の脳裏には、戦争、飢餓、貧困等々で苦しむ世界の民衆が鮮明に映し出されていた。彼は、何よりも人類を引き裂く東西冷戦にピリオドを打つために、自分ができることは何かを問い、考え抜いてきた。“一人の人間として、一民間人として、世界の首脳たちと対話を重ね、人間と人間を結ぶことだ。いかに不可能に見えようが、それ以外に、平和の創造はない!”
人間主義の旗を高く掲げ、21世紀の新大陸へと進む創価の新航路が、ありありと彼の瞼に浮かぶのであった。
4月22日、山本伸一は総本山に足を運んだ。法主の日達と面会するためである。彼にとって法華講総講頭の辞任も、学会の会長の辞任も、もはや未来のための積極的な選択となっていた。もちろん辞任は、宗門の若手僧らの理不尽な学会攻撃に終止符を打ち、大切な学会員を守るためであった。
しかし、「七つの鐘」が鳴り終わる今こそ、学会として新しい飛翔を開始する朝の到来であると、彼は感じていた。また、これまで十分な時間が取れず、やり残してきたこともたくさんあった。世界の平和のための宗教間対話もその一つであったし、功労者宅の家庭訪問など、同志の激励にも奔走したかった。
伸一は、日達と対面すると、既に意向を伝えていた法華講総講頭の辞任を、正式に申し出た。そして、26日には辞表を提出する所存であることを告げた。日達からは「名誉総講頭の辞令を差し上げたい」との話があった。
太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋
迎賓館で鄧頴超と会見した翌日の4月13日、山本伸一は新宿区内で、松下電器産業(後のパナソニック)の創業者である松下幸之助と懇談した。深い交友を重ねてきた松下翁にも、会長を辞任する意向であることを伝えておかなくてはと思った。
「私は、次代のため、未来のために、会長を辞任し、いよいよ別の立場で働いていこうと思っています」松下翁は、子細を聞こうとはしなかった。「そうですか。会長をお辞めになられるのですか。私は、自分のことを誇りとし、自分を賞賛できる人生が、最も立派であると思います」含蓄のある言葉であった。
この日、伸一は、神奈川県横浜市に完成した神奈川文化会館へ向かった。神奈川は、創価学会の平和運動の原点の地である。会館の前は山下公園で、その先が横浜の港である。「七つの鐘」を鳴らし終え、平和・文化の大航路を行く創価の、新しい船出を告げるにふさわしい会館であると、伸一は思った。
伸一は思った。“自分の会長辞任が発表されれば、少なからず皆は驚くにちがいない。しかし、何があろうが、いささかたりとも、信心に動揺があってはならない。そのために、不動の信心の確立を叫び抜いておかねばならない”
彼は、言葉をついだ。「学会においても、幾つかの転機があり、乗り越えるべき節があります。いかなる時でも、私たちが立ち返るべき原点は、初代会長の牧口先生が言われた“一人立つ精神”であり、広宣流布の大精神であります」
“どのような事態になろうが、創価の師弟の大道を守り抜く限り、慈折広布の前進がとどまることはない。世界の平和へ、人類の幸福へと歴史の歯車は回り、一人ひとりの桜花爛漫たる幸の人生が開かれていくーー彼は、全同志に、その確信を、断じて持ち続けてほしかったのである”
4月16日の午後、来日していたアメリカの前国務長官ヘンリー・A・キッシンジャー博士の訪問を受け、渋谷区の国際友好会館で会談した。約4年ぶりの対面である。二人は、提起し合った問題を掘り下げていくには、多くの時間を要するため、将来、もう一度、対談し、21世紀を建設するための示唆を提供していこうと約し合った。
それが実現し、1968年、2日間にわたって語らいが行われた。これに往復書簡もまじえ、月刊誌『潮』に対談が連載された。そして’89年9月、単行本『「平和」と「人生」と「哲学」を語る』として潮出版社から刊行されている。
山本伸一は、今こそ、平和の礎となる、仏法から発する生命の尊厳と平等の哲理を世界に伝え、広め、21世紀の時代精神としなければならないと決意していた。
伸一は、世界平和の実現という壮大なる目標に向かって、指導者、識者らとの対話を進める一方、一人ひとりの同志の幸福を願い、家庭訪問や個人指導に余念がなかった。“何があろうと、いかなる立場になろうと、私は尊き学会員を励まし続ける。庶民と共にどこまでも歩み続ける”ーー彼は、そう固く心に決めていたのである。
一人の人を大切にし、守り励ますことも、世界平和の建設も、同じ原点をもつ。万人が等しく「仏」であるとの、仏法の哲理と慈悲から生じる実践にほかならないからだ。
彼の脳裏には、戦争、飢餓、貧困等々で苦しむ世界の民衆が鮮明に映し出されていた。彼は、何よりも人類を引き裂く東西冷戦にピリオドを打つために、自分ができることは何かを問い、考え抜いてきた。“一人の人間として、一民間人として、世界の首脳たちと対話を重ね、人間と人間を結ぶことだ。いかに不可能に見えようが、それ以外に、平和の創造はない!”
人間主義の旗を高く掲げ、21世紀の新大陸へと進む創価の新航路が、ありありと彼の瞼に浮かぶのであった。
4月22日、山本伸一は総本山に足を運んだ。法主の日達と面会するためである。彼にとって法華講総講頭の辞任も、学会の会長の辞任も、もはや未来のための積極的な選択となっていた。もちろん辞任は、宗門の若手僧らの理不尽な学会攻撃に終止符を打ち、大切な学会員を守るためであった。
しかし、「七つの鐘」が鳴り終わる今こそ、学会として新しい飛翔を開始する朝の到来であると、彼は感じていた。また、これまで十分な時間が取れず、やり残してきたこともたくさんあった。世界の平和のための宗教間対話もその一つであったし、功労者宅の家庭訪問など、同志の激励にも奔走したかった。
伸一は、日達と対面すると、既に意向を伝えていた法華講総講頭の辞任を、正式に申し出た。そして、26日には辞表を提出する所存であることを告げた。日達からは「名誉総講頭の辞令を差し上げたい」との話があった。
太字は 『新・人間革命』第30巻より 抜粋