『新・人間革命』第29巻 源流の章 407p~

伸一は、9日午後、ジャワハルラル・ネルー大学を訪問した。教育交流の一環として、図書を贈呈するためである。伸一は、この訪問でコチュリル・ラーマン・ナラヤナン副総長と語り合えることを、ことのほか楽しみにしていた。

インド社会には「不可触民」と呼ばれ、カースト制度の外に置かれて差別され続けた最下層の人たちがいた。副総長は、その出身だが、国家を担う逸材として期待されていたのである。カースト制度は、インドの近代化を推進するうえで、越えねばならない大きな障壁であった。既にカーストによる差別は禁じられていたが、慣習として根強く定着していた。

カースト制度は、都市部にあっては職業カーストとして細分化され、清掃一つとっても床とトイレとでは、行う人のカーストが違う。しかし、それによって、人びとの仕事が保証されているという現実もあった。それだけに、この制度の克服は容易ではなかった。

ナラヤナン副総長は、苦労に苦労を重ね、大学に進み、奨学金を得て、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに留学する。帰国に際して政治学者である同校のハロルド・ラスキ教授が、ネルー首相に紹介状を書いてくれた。このネルーとの出会いが、彼の人生を変える。外務省入りを勧められ、外交官として新しい一歩を踏み出すことになる。

彼の存在が、カーストによって差別する偏見を打ち破る先駆の力となった。人間の生き方こそが、社会の変革を促す。

ナラヤナンは、1997年7月、国会と州議会の議員による選挙で、有効投票数の95パーセントを得て大統領に就任。「不可触民」といわれ、差別されてきた最下層の出身者から、初めて大統領が誕生したのだ。新しき朝は来た。人間のつくった差別という歴史の闇を破るのは、人間の力である。

訪印団一行は、ネルー記念館を訪問した。午後8時から、インディアン・エクスプレス社のR・N・ゴエンカ会長が主催する訪印団一行の歓迎宴が、行われた。「インディアン・エクスプレス」は、インド屈指の日刊紙である。

インドが独立したあとも、イギリス政府による新聞への激しい圧迫の時代があった。しかし彼は、それに屈することなく、言論人としての主義主張を貫いていった。伸一が、その苦境を突き破ったバネは何かを尋ねると、会長は胸を張って答えた。「人びとに対する義務です!人びとに応えるために、私は支配者に屈服、服従することはできませんでした」

2月11日ーー恩師・戸田城聖の生誕の日である。山本伸一は今、その師に代わって平和旅を続け、師が最も広宣流布を願った仏教発祥の地インドで、紺青の空を仰いでいることに、深い感慨を覚えた。

命には限りがある。“だから、先生は不二の弟子として私を残されたのだ。先生に代わって、生きて生きて生き抜いて、東洋広布を、世界広布を進めるのだ!”と、彼は、何度も自分に言い聞かせてきた。
彼は、弟子の道に徹し抜いてきたことへの強い自負があった。この晴れ渡る空のように、心には一点の後悔もなかった。獅子の闘魂が、太陽のごとく燃え輝いていた。

この日の朝、伸一たち訪印団一行は、ニューデリーから、空路、ビハール州の州都パトナへと向かった。午後4時前、伸一は、ジャイプラカシ・ナラヤンの自宅を訪ねた。ナラヤンは、マハトマ・ガンジーの弟子で、76歳であった。“インドの良心”として、民衆から敬愛されているインドの精神的指導者である。

ガンジー亡きあと、彼は、師の思想を受け継ぎ、すべての階層の人びとの向上をめざす「サルボダヤ運動」を展開していった。


太字は 『新・人間革命』第29より 抜粋