『新・人間革命』第29巻 力走の章 162p~

日蓮大聖人は「忘れても法華経を持つ者をば互いに毀るべからざるか、其故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり仏を毀りては罪を得るなり」と仰せである。

さらに、同志の怨嫉は、破和合僧となり、仏意仏勅の団体である創価学会の組織に亀裂を生じさせ、広宣流布を内部から破壊する魔の働きとなる。伸一は、愛する同志を、決して不幸になどさせたくなかった。ゆえに、厳しく怨嫉を戒めておきたかったのである。

「学会のリーダーは、人格、見識、指導力等々も優れ、誰からも尊敬、信頼される人になるべきであり、皆、そのために努力するのは当然です。しかし、互いに凡夫であり、人間革命途上であるがゆえに、丁寧さに欠けるものの言い方をする人や、配慮不足の幹部もいるでしょう。

いやな思いをさせられることもあるかもしれない。そうであっても、恨んだり、憎んだりするならば、怨嫉になってしまう。“どう見ても、これはおかしい”と思うことがあれば、率直に意見を言うべきですし、最高幹部にも相談してください。もし、幹部に不正等の問題があれば、学会として厳格に対処していきます。

また、リーダーの短所が災いして皆が団結できず、活動が停滞しているような場合には、その事態を打開するために、自分に何ができるのかを考えていくんです。他人事のように思ったり、リーダーを批判したりするのではなく、応援していくんです。それが『己心の内』に法を求める仏法者の生き方です。

人間関係で悩む時こそ、自分を成長させる好機ととらえ、真剣に唱題し、すべてを前進の燃料に変えていってください。何があっても、滝のごとく清らかな、勢いのある信心を貫いていくんです」

「人間というのは、なかなか自分を見つめようとはしないものです。『あの人が悪い』『この人が悪い』等々、たくさん理由をあげる。確かに、そう指摘される人には問題があるかもしれませんが、そこには、自分はどうなのだという視座が欠落している。他の人が悪いからといって、自分が正しいとは限りません。

“自分に責任があるのだ。私が悪い”とは考えない。つまり、『己心の外』にばかり目がいってしまい、大聖人の御聖訓も、学会の指導も、他人を測り、批判するための尺度になってしまっているんです。

本来、仏法の教えというものは、自分の生き方の尺度とすべきものです。ここを間違えると、信心の道を大きく踏み外してしまうことになります。だから、皆さんには、幸せになるために、自分自身に生き抜き、本当の信心を貫いてほしいんです。

仏法者というのは『自己挑戦』の人、『自己対決』の人です。我即宇宙ですから、自身を征する人は一切に勝つことができます。ともかく、題目を唱えていけば、自分が変わります。自分が変われば環境も変わる。したがって、いかに多忙であっても、勤行・唱題という根本の実践は、決しておろそかにしてはならない。どうか、一日一日、一瞬一瞬を大切にし、わが生命を輝かせながら、大勝利の所願満足の人生を生き抜いてください」

伸一は、三重県の津市内で、草創の同志らと懇談会を開いた。ここでも、幹部の活動の在り方に言及していった。「何よりもまず、徹底して会員の方々とお会いすることです。人と会うことは、一切の基本です。会って語り合い、心と心が通じ、共感し合ってこそ、団結も生まれます」

「幹部は、皆に信心の養分を送り続けていく存在であり、そのためには、自らが信心強情な先輩を求めて切磋琢磨し、常に成長し続けていくことが大事です。なかには、一応は先輩幹部であっても、広宣流布への使命感も、情熱も乏しく、ともすれば組織の批判ばかりする人もいます。もし、そうした人との交わりを深め、同調して、不平や不満を並べていると、自分も清新な信心の息吹を失い、堕落していってしまう。

次に、幹部の反社会的な行為や組織利用は絶対に許されないということを、深く心にとどめていただきたい。仮に、そういう幹部と親しい関係にあったとしても、決して擁護する必要はありません。学会は、悪は悪であると鋭く見抜き、的確に対処できる健全な組織でなければならない」

日蓮大聖人は、「悪因あれば悪果を感じ善因あれば善果を感ず」と仰せである。ゆえに、われらは、最もモラルを重んじ、正義を貫く、高潔なる人格の人でなければならない」


太字は 『新・人間革命』第29より 抜粋
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