『新・人間革命』第28巻 勝利島の章 414p~

学会の偏見や誤解から、迫害の嵐が吹き荒れた地域でも、学会員への信頼は不動のものとなり、「非難」は「賞賛」へと変わっていった。各島の同志は、広宣流布への決意を、いよいよ燃え上がらせたのである。

かつて学会員が村八分にされ、車やオートバイを連ねて「学会撲滅」を叫ぶデモが行われた奄美大島でも、学会理解は大きく進んでいた。1976年(昭和51年)6月21日、山本伸一のもとへ、「奄美広布決議」と題する一文が届けられた。

奄美群島の同志は、伸一が奄美総支部結成大会に出席した63年6月22日を記念して、6・22を「奄美の日」とした。決議は、その新出発の総ブロック総会等を開催するにあたり、採択したものであるという。

奄美の同志は、さまざまな圧迫に押しつぶされそうになりながらも、自らを鼓舞し、人びとの幸福と島の繁栄を願って広宣流布に生き抜いてきた。伸一は、その姿に仏を見る思いがしていた。その生き方のなかにこそ、現代における不軽菩薩の実践もあると、彼は強く確信していた。

彼は、同志の決意を大切にしていた。「意を決める」ことから、行動が生まれ、努力が生まれ、忍耐が生まれ、勝利が生まれる。決意は、大願成就の種子であるからだ。ゆえに彼は、皆の決意には、最大の真心と誠実をもって応えていったのである。師弟共線がもたらす歓喜の発光は、広宣流布を阻む、いかなる暗雲をも打ち破る。

山本伸一は、各島々の飛躍のために、ますます力を尽くそうと心に決め、島にあって広宣流布を支え、推進してくれた同志を、讃え、励ますことから始めた。彼は、それぞれの島に生き、戦う、勇者たちの英姿を思い浮かべ、祈りを込め、代表に激励の和歌や言葉を、次々と贈っていった。

この励ましに、同志は燃えた。吹雪の暗夜を歩み続けて生きた人には、一言の激励が勇気の火となり、温もりとなる。苦闘し抜いた人ほど、人の真心を感じ取る。

「組織が発展し、皆が功徳を受けていくならば、それは、草創期に道を切り開いてきた人に、全部、福運となって回向されます。大聖人は『功徳身にあつまらせ給うべし』と仰せです。苦労を重ねて広布の大地を開墾し、妙法の種を蒔いた人を、諸天は永遠に大絶賛してくださるんです。

皆さんご自身が、本来、仏であり、皆さんは、自分の今いる場所を常寂光土としていくために出現したんです。どうか、力を合わせ、八丈島を広布模範の島にしてください。広布第二章の大潮流を八丈島から起こしてください。私は、じっと見守っています」

八丈島では、「聖教新聞」の購読推進に力を注ぎ、島の購読世帯が35%を超える結果をもって、2001年5月3日を飾ることになる。

1978年8月山本伸一は、佐賀、長崎、鹿児島の三県合同幹部会に出席した。奄美へ帰るメンバーと会って懇談のひと時をもった。

「大聖人は、一生のうちに自身の一切の謗法を消滅できるのは、法華経のゆえに数々の大難に遭ったからであると言われている。

奄美の皆さんは、勝った!仏法は勝負です。10年、20年、30年、いや50年とたった時に、すべては、ますます明らかになる。勝負は一生です。最後の大勝利を確信し、不退の勇者として生き抜いてください。

それには、心が強くなければならない。臆病では信心を全うすることはできません。大試練に耐えるとともに、自分の慢心や名聞名利への執着などに打ち勝つ強さが必要です。学会を離れれば、最後は後悔します。孤独です。広宣流布の陣列から離れることなく、はつらつと歓喜の大行進を続けてください」

伸一は、離島本部の幹部から、島と島とのつながりが、あまりないので、全国の同志が一堂に会し、それぞれの島の同志が奮闘している模様を語り合える会合を開催してはとの提案に、賛成し、離島本部総会が 決まったのである。10月7日創価文化会館で離島本部総会が開催された。


太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋