『新・人間革命』第28巻 勝利島の章 404p~
創価学会の組織は、なんのためにあるのかーー人びとに真実の仏法を広め、教え、励まし、崩れざる幸福境涯にいたるよう手を差し伸べ、切磋琢磨していくためである。したがって、最も苦しく、大変ななかで信心に励んでいる人ほど、最も力を込めて激励し、元気づけていかねばならない。
山本伸一は、かねてから、島の同志が、希望に燃え、勇気をもって、はつらつと前進していくための励ましの組織をつくらねばならないと考えていた。1974年(昭和49年)の1月14日に、離島本部の結成が発表されたのである。
仏法の世界で偉いのは誰か。--御書に仰せの通り、迫害、弾圧と戦いながら、懸命に弘教に励み、人材を育て、地域に信頼を広げながら、広宣流布の道を黙々と切り開いてきた人である。人びとの幸せのために汗を流し、同苦し、共に涙しながら、祈り、行動してきた人である。僧侶だから偉いのではない。幹部だから偉いのでもない。
伸一は、話を続けた。「学会のリーダーは、自分が偉いように錯覚し、会員の方々に横柄な態度で接したり、慇懃無礼な対応をしたりするようなことがあっては絶対にならない。健気に戦ってきた同志を、心から尊敬することができなくなれば、仏法者ではありません。
もしも幹部が、苦労を避け、自分がいい思いをすることばかり考えるようになったら、それは、広宣流布を破壊する獅子身中の虫です。そこから学会は崩れていってしまう。そのことを、深く、生命に刻んでいただきたい」
伸一は、代表者会議を終えて、帰途に就くメンバーの見送りにも立った。バスに乗り込む一人ひとりの魂を揺さぶる思いで、声をかけ、励ましていった。「朝な夕な、題目を送り続けます。私たちの心は、いつも一緒です。じっと、皆さんを見守っていきます。
島の人びとは、すべて自分が守るのだという思いで、仲良く、常識豊かに、大きな心で進んでいってください。信頼の大樹となって、全島民を包んでいただきたいんです」広布の一切は、一人立つことから始まる。この日、離島の同志たちは、広布第二章の新しい扉を開いたのである。
離島の実態を調べて驚いたのは、約4百ある有人の島の多くに学会員がいるということであった。といっても、一世帯から数世帯しか会員がいない島も少なくなかった。島の同志は、まさに一人立って、創価の松明を掲げ、孤軍奮闘していたのである。離島本部の幹部たちは、励ましの手を差し伸べることの必要性を痛感した。
離島本部の幹部が、島を駆け巡る姿を目の当たりにして、地元の県や本部の幹部の意識にも変化が起こった。厳しい条件のなかで活動している人にこそ光を当て、讃え、励まし、希望と確信を与えていくという幹部の基本姿勢を、再確認する契機となったのだ。そして、積極的に離島を訪れる流れが生まれていったのである。
離島本部長の三津島誠司らは、山本伸一の沖縄指導があった翌月の三月、完成したばかりの、その記録映画のフィルムを持って、沖縄の久米島、宮古島、池間島、伊良部島、西表島、石垣島を回った。各島で、「映写会」や「講演と映画の夕べ」など、趣向を凝らした催しが行われた。友人も参加しての楽しく有意義なひと時となった。
離島本部の幹部らにとって、各島々の訪問は、すべてが驚きであり、感動であった。移動に、サバニと呼ばれる小舟を借りていくことになった。港からは、トラックをチャーターして会場に向かった。道はでこぼこで、車の揺れは激しく、体が飛び跳ねる。離島本部の幹部は思った。
“西表の人たちは、こうしたなかで活動しているのか!10分も歩けば、大ブロックを通り越してしまう東京都区内とは大違いだ。東京にいて、活動が大変だなんて嘆いていたら、西表の人に笑われてしまう”労苦は、仏道修行の最高の道場となる。大変な思いをした分だけ、功徳は大きい。
小笠原は、東京の南方千キロの太平洋上にあり、父島をはじめ、母島、硫黄島、南鳥島など、30余の島々から成る。太平洋戦争激化にともない、島々に住んでいた約7千人の住民が、本土などに強制疎開させられている。
強制疎開から24年後の68年6月小笠原は、返還された。その後、かつての住民たちが帰還し、広宣流布の火がともされていった。
太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋
創価学会の組織は、なんのためにあるのかーー人びとに真実の仏法を広め、教え、励まし、崩れざる幸福境涯にいたるよう手を差し伸べ、切磋琢磨していくためである。したがって、最も苦しく、大変ななかで信心に励んでいる人ほど、最も力を込めて激励し、元気づけていかねばならない。
山本伸一は、かねてから、島の同志が、希望に燃え、勇気をもって、はつらつと前進していくための励ましの組織をつくらねばならないと考えていた。1974年(昭和49年)の1月14日に、離島本部の結成が発表されたのである。
仏法の世界で偉いのは誰か。--御書に仰せの通り、迫害、弾圧と戦いながら、懸命に弘教に励み、人材を育て、地域に信頼を広げながら、広宣流布の道を黙々と切り開いてきた人である。人びとの幸せのために汗を流し、同苦し、共に涙しながら、祈り、行動してきた人である。僧侶だから偉いのではない。幹部だから偉いのでもない。
伸一は、話を続けた。「学会のリーダーは、自分が偉いように錯覚し、会員の方々に横柄な態度で接したり、慇懃無礼な対応をしたりするようなことがあっては絶対にならない。健気に戦ってきた同志を、心から尊敬することができなくなれば、仏法者ではありません。
もしも幹部が、苦労を避け、自分がいい思いをすることばかり考えるようになったら、それは、広宣流布を破壊する獅子身中の虫です。そこから学会は崩れていってしまう。そのことを、深く、生命に刻んでいただきたい」
伸一は、代表者会議を終えて、帰途に就くメンバーの見送りにも立った。バスに乗り込む一人ひとりの魂を揺さぶる思いで、声をかけ、励ましていった。「朝な夕な、題目を送り続けます。私たちの心は、いつも一緒です。じっと、皆さんを見守っていきます。
島の人びとは、すべて自分が守るのだという思いで、仲良く、常識豊かに、大きな心で進んでいってください。信頼の大樹となって、全島民を包んでいただきたいんです」広布の一切は、一人立つことから始まる。この日、離島の同志たちは、広布第二章の新しい扉を開いたのである。
離島の実態を調べて驚いたのは、約4百ある有人の島の多くに学会員がいるということであった。といっても、一世帯から数世帯しか会員がいない島も少なくなかった。島の同志は、まさに一人立って、創価の松明を掲げ、孤軍奮闘していたのである。離島本部の幹部たちは、励ましの手を差し伸べることの必要性を痛感した。
離島本部の幹部が、島を駆け巡る姿を目の当たりにして、地元の県や本部の幹部の意識にも変化が起こった。厳しい条件のなかで活動している人にこそ光を当て、讃え、励まし、希望と確信を与えていくという幹部の基本姿勢を、再確認する契機となったのだ。そして、積極的に離島を訪れる流れが生まれていったのである。
離島本部長の三津島誠司らは、山本伸一の沖縄指導があった翌月の三月、完成したばかりの、その記録映画のフィルムを持って、沖縄の久米島、宮古島、池間島、伊良部島、西表島、石垣島を回った。各島で、「映写会」や「講演と映画の夕べ」など、趣向を凝らした催しが行われた。友人も参加しての楽しく有意義なひと時となった。
離島本部の幹部らにとって、各島々の訪問は、すべてが驚きであり、感動であった。移動に、サバニと呼ばれる小舟を借りていくことになった。港からは、トラックをチャーターして会場に向かった。道はでこぼこで、車の揺れは激しく、体が飛び跳ねる。離島本部の幹部は思った。
“西表の人たちは、こうしたなかで活動しているのか!10分も歩けば、大ブロックを通り越してしまう東京都区内とは大違いだ。東京にいて、活動が大変だなんて嘆いていたら、西表の人に笑われてしまう”労苦は、仏道修行の最高の道場となる。大変な思いをした分だけ、功徳は大きい。
小笠原は、東京の南方千キロの太平洋上にあり、父島をはじめ、母島、硫黄島、南鳥島など、30余の島々から成る。太平洋戦争激化にともない、島々に住んでいた約7千人の住民が、本土などに強制疎開させられている。
強制疎開から24年後の68年6月小笠原は、返還された。その後、かつての住民たちが帰還し、広宣流布の火がともされていった。
太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋