『新・人間革命』第28巻 勝利島の章 394p~

当時、十島、三島の主な産業は、農業と漁業である。島での仕事は限られている。若い人の大多数は、中学校を出ると島を離れていく。人口は減少の一途をたどっていた。そのなかで学会員は、強く、明るく、島の繁栄のために頑張り抜いていたのだ。

周囲の人たちに信心を反対されながらも、笑顔で包み込むように接し、着実に理解者を広げているのである。石切は、その姿に、心が洗われる思いがした。“鬼界ケ島”とも呼ばれる三島村の硫黄島にも、島の人たちの幸せを願って信心に励む婦人の姿があった。

男性に交じって土木工事にも精を出した。新しい衣服も買えず、着物をワラ縄で縛って労作業に励んだ。彼女が仏法の話をしても、皆、蔑み、耳を傾けようとはしなかった。しかし、着実に生活革命の実証を示すにつれて、学会への理解が深まっていった。そして、硫黄鉱山が閉鎖され、不景気な時代が続くなかで、彼女の一家は、立派な家を新築するのだ。

竹島には、かつて他宗の僧をしていた学会員もいた。島で唯一の僧が学会の信心を始めただけに、人びとの戸惑いも、反発も大きかった。しかし彼は、“なぜ、僧であった自分が学会に入会したのか“を通して、日蓮大聖人の仏法の正しさ、偉大さを、厳然と訴え抜いていったのだ。石切は、今ままさに、地涌の菩薩が、躍り出ているのだと、心の底から実感するのであった。

奄美大島の南には加計呂麻島があり、さらに、その南方に与路島や請島がある。草創期、与路島の同志は、加計呂麻島や請島へは、手漕ぎ舟で弘教に通った。奄美大島で開かれる会合にも、手漕ぎ舟に乗って出かけた。数時間がかりで海を渡っていくのだ。

奄美群島の有人島には、猛毒をもったハブが生息し、夜は危険度を増す。草むらなどでは、いつ襲ってくるかわからない。使命に目覚めた民衆には、あらゆる障害を跳ね返す力がある。友の幸せを願う民衆の不屈の行動で、日蓮仏法は、広がっていったのだ。

多かれ少なかれ、どの島でも村八分などの厳しい迫害の歴史があった。そのなかで、学会員は、御本尊を根本に、御書、機関紙誌と、同志の励ましを支えに耐え抜き、試練を勝ち越え、幸の花々を咲かせてきたのだ。

台風20号が日本列島を襲い、各地で猛威を振るった。伸一は、言った。「ある意味で、苦難や試練が、次々と押し寄せてくるのが人生といえるかもしれない。大事なことは、その時にどうしていくかなんです。

実は、信心することの本当の意味は、どんな苦しみや逆境にも負けない、強い自分をつくっていくことにこそあるんです。被災された皆さんは、試練に負けずに厳然と立ち上がり、周囲の人びとに、希望の光、勇気の光を、送り続けてほしいんです」

伸一は、同志への激励として、袱紗を鹿児島県の幹部に託した。幹部はそれを持って島を訪れた。一人ひとりに山本会長の思いを語って励まし、袱紗を手渡していった。島の同志が受け取ったのは、自分たちを思いやる、“伸一の真心”であった。心と心が触れ合い、勇気が生まれ、誓いが生まれ、獅子が生まれる。

伊豆大島が大火に見舞われた。島は、停電のため、ろうそくの明かりのなかで、座談会が開かれた。派遣された幹部が伸一の魂の叫びである言葉を伝えると、座談会の空気は一変し、「この災難を、大島の大発展のバネにしていこう!」と口々に、決意を語り合った。

“友の再起のために、仏法を語ろう”と弘教を開始すると、いつの間にか、自身の悩みの迷宮から脱していた。“必ず乗り越えてみせるぞ!”という固い決意と、“絶対に乗り越えられる!”という強い確信が、胸に込み上げてくるのだ。境涯革命の直道は、弘教にこそある。

大火から8か月後の1965年9月には、待望の伊豆大島会館の起工式が行われた。大火前、島の学会世帯は5百世帯ほどであった。しかし、この年の12月には8百数十世帯となり、翌年には、遂に念願の千世帯を達成したのである。皆が奮い立つ時、新しい前進が始まる。皆が心を合わせる時、新時代が開かれる。

1月21日、晴て会館の落成式が挙行された。この法城は、大火の悲しみのなか、涙を拭って立ち上がった同志にとって、人生と広布の勝利の記念塔となったのである。


太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋