『新・人間革命』第28巻 革心の章 278p~
復但大学での図書贈呈式を終えた訪中団一行は、13日午後、上海から急行列車で蘇州へ向かった。車中3年5か月ぶりに訪れた上海の印象を語り合った。4年前に中国を初訪問した折、孫秘書長が、魯迅の『故郷』の一説を引いて語った言葉が忘れられなかった。
「『もともと地上には、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ』魯迅先生は、こう言われております。私は、友好の道というものも、そうして出来上がると思っています。たくさんの人が、一歩、また一歩と、踏み固め、行き来する、その積み重ねが、平和の大道となっていく。それは、一朝一夕では、決してできません」
今回の訪問では、随所に中国側の配慮が感じられた。このころ中国は、まだ自動車の数は少なかった。そうしたなかで、上海でも、蘇州でも、一行の移動はバスではなく、メンバー一人ないし二人に、乗用車1台が提供されたのである。
孫平化秘書長は、力を込めて語った。「山本先生をはじめ、創価学会の皆さんが、どんな思いをされて、中日友好の流れを開かれてきたか、また、それが歴史的にいかに偉大なことであったかを、私たちはよく存じ上げているからです。山本先生がおられたからこそ、中日国交正常化があり、平和友好条約の締結にいたった。その信義と恩義とを、私たちは永遠に忘れません」
9月14日、訪中団一行は、刺繍研究所を訪れ、千年の歴史をもつという、蘇州の刺繍ができあがる工程を見学した。伸一たちは、行く先々で対話の橋を架け、無錫から列車に乗り、南京へ向かった。
南京は、1937年(昭和12年)には、日中戦争で日本軍が侵攻し、大きな惨禍を刻む歴史の舞台となったのである。伸一は、「日中平和友好条約」が結ばれる今、中国を訪問し、日中戦争の最も悲惨な歴史が刻印された南京の地に立ったことに、深い意義を感じていた。
“これから、日中の平和の行進が始まる。南京を、その新出発の起点とするのだ。戦争の凄惨な歴史を刻んだ地なればこそ、平和と友好の一大拠点としていかねばならない。過去を直視し、未来建設の力としていくーーそこに、今を生きる人間の使命がある”
翌日、市内にある雨花台烈士陵園へ向かった。美しい名とは反対に、ここは、南京の国民党政府に抗して、新中国の建設に命を懸けた多くの烈士たちが、処刑された地である。陵園の責任者は、凄惨な雨花台の歴史を一行に説明した。
「中国人民にとって雨花台は、人びとの血で染まった忘れ得ぬ地なんです。しかし、これは、一部の軍国主義者たちのやったことであり、日本人民には関係ありません。また、中国は確かに多大な犠牲を払いましたが、この戦争は、日本人民にも多くの悲劇をもたらしました。
中日二千年の文化交流の歴史から見ると、両国は、平和友好条約の調印後、さらに信頼を深める努力を重ねていくならば、必ずや世々代々、友好的におつき合いしていけるものと確信しています」
伸一は、深く思った。“こうした歴史から絶対に目を背けず、今こそ、万代の日中の平和と友好の道を開くことだ。それが、この痛ましい犠牲者への追悼である。それが、その殉難に報いる道である”
訪中団一行は、殉難の記念碑に献花を行った。一行は、尊い命を散らせた烈士たちをはじめ、日中戦争で犠牲になったすべての人々の冥福を祈って、唱題した。亡くなった人を悼み、冥福を祈る心に国境はない。祈りの心は、人間を結ぶ。
烈士陵園をあとにした一行は、南京市の北西部に位置する南京長江大橋を視察した。長江とは揚子江のことであり、長江大橋は、中国東部を南北に結ぶ大動脈である。
9月16日、訪中団一行は、梅園新村記念館を訪れた。ここは、1946年5月から翌年3月まで、中国の国民党と共産党の和平交渉が行われた折、周恩来が事務所、宿舎とした場所である。
妻の鄧頴超も、ここに住み、和平の道を開こうと懸命に務めた。彼女は、この時、政治協商会議の中国共産党代表7人のうち、唯一の女性であった。
太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋
「『もともと地上には、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ』魯迅先生は、こう言われております。私は、友好の道というものも、そうして出来上がると思っています。たくさんの人が、一歩、また一歩と、踏み固め、行き来する、その積み重ねが、平和の大道となっていく。それは、一朝一夕では、決してできません」
今回の訪問では、随所に中国側の配慮が感じられた。このころ中国は、まだ自動車の数は少なかった。そうしたなかで、上海でも、蘇州でも、一行の移動はバスではなく、メンバー一人ないし二人に、乗用車1台が提供されたのである。
孫平化秘書長は、力を込めて語った。「山本先生をはじめ、創価学会の皆さんが、どんな思いをされて、中日友好の流れを開かれてきたか、また、それが歴史的にいかに偉大なことであったかを、私たちはよく存じ上げているからです。山本先生がおられたからこそ、中日国交正常化があり、平和友好条約の締結にいたった。その信義と恩義とを、私たちは永遠に忘れません」
9月14日、訪中団一行は、刺繍研究所を訪れ、千年の歴史をもつという、蘇州の刺繍ができあがる工程を見学した。伸一たちは、行く先々で対話の橋を架け、無錫から列車に乗り、南京へ向かった。
南京は、1937年(昭和12年)には、日中戦争で日本軍が侵攻し、大きな惨禍を刻む歴史の舞台となったのである。伸一は、「日中平和友好条約」が結ばれる今、中国を訪問し、日中戦争の最も悲惨な歴史が刻印された南京の地に立ったことに、深い意義を感じていた。
“これから、日中の平和の行進が始まる。南京を、その新出発の起点とするのだ。戦争の凄惨な歴史を刻んだ地なればこそ、平和と友好の一大拠点としていかねばならない。過去を直視し、未来建設の力としていくーーそこに、今を生きる人間の使命がある”
翌日、市内にある雨花台烈士陵園へ向かった。美しい名とは反対に、ここは、南京の国民党政府に抗して、新中国の建設に命を懸けた多くの烈士たちが、処刑された地である。陵園の責任者は、凄惨な雨花台の歴史を一行に説明した。
「中国人民にとって雨花台は、人びとの血で染まった忘れ得ぬ地なんです。しかし、これは、一部の軍国主義者たちのやったことであり、日本人民には関係ありません。また、中国は確かに多大な犠牲を払いましたが、この戦争は、日本人民にも多くの悲劇をもたらしました。
中日二千年の文化交流の歴史から見ると、両国は、平和友好条約の調印後、さらに信頼を深める努力を重ねていくならば、必ずや世々代々、友好的におつき合いしていけるものと確信しています」
伸一は、深く思った。“こうした歴史から絶対に目を背けず、今こそ、万代の日中の平和と友好の道を開くことだ。それが、この痛ましい犠牲者への追悼である。それが、その殉難に報いる道である”
訪中団一行は、殉難の記念碑に献花を行った。一行は、尊い命を散らせた烈士たちをはじめ、日中戦争で犠牲になったすべての人々の冥福を祈って、唱題した。亡くなった人を悼み、冥福を祈る心に国境はない。祈りの心は、人間を結ぶ。
烈士陵園をあとにした一行は、南京市の北西部に位置する南京長江大橋を視察した。長江とは揚子江のことであり、長江大橋は、中国東部を南北に結ぶ大動脈である。
9月16日、訪中団一行は、梅園新村記念館を訪れた。ここは、1946年5月から翌年3月まで、中国の国民党と共産党の和平交渉が行われた折、周恩来が事務所、宿舎とした場所である。
妻の鄧頴超も、ここに住み、和平の道を開こうと懸命に務めた。彼女は、この時、政治協商会議の中国共産党代表7人のうち、唯一の女性であった。
太字は 『新・人間革命』第28より 抜粋