『新・人間革命』第27巻 求道の章 401p~

石沢宅を出た伸一たちが向かったのは約70キロ先の別海町の西春別にある個人会館であった。“別海広布”を願う同志の尽力によって、誕生した会館であるという。地元のメンバーと懇談した。語らいのテーマは、別海をどのように繁栄させていくかになった。

さらに、この広大な地域の広宣流布を進めていくうえで、何が大切かも訴えた。「学会員同志が仲良く、どこよりも団結していくことです。」

彼が、別海町尾岱沼の北海道研修道場に到着したのは、午後八時半過ぎであった。伸一は、マフラーを首に巻き、防寒具を着て、建物のなかを回った。“皆、北海の厳しい自然環境に耐えながら頑張り抜き、広宣流布の基盤をつくってくださった尊い方々である・・・”そう思うと、感謝の念が、熱い感動となって込み上げてくるのだった。

伸一は、役員をしていた根室本部の男子部本部長の菅山勝司を紹介されると、「君のことはよく知っています。別海広布の開拓者だもの。三、四年前、『聖教新聞』に体験が載っていたね。すばらしい内容でした」と握手を交わした。菅山は自分の耳を疑った。感動が胸を貫いた。“先生が、俺のことをご存じだなんて!”励ましは、相手を知ることから始まる。

菅山が信心を始めた動機は、“食べるのがやっと”という生活から、抜け出したかったからである。また、もともと内気で、口べたであることに劣等感をいだき、それを克服したいとの、強い思いもあった。菅山は、学会活動を始めた。活動の拠点は釧路であった。経済的にも、時間的にも釧路に行くことは難しく、男子部員4人が手紙で、連絡を取り合うことしかできなかった。

釧路で男子部の会合があると連絡がきたが、汽車賃がなかった。葉書に書いてあった「環境に負けて、いつまでも会合に参加できないと言っていては、成長は望めません」という言葉が深く胸に刺さった。釧路までは列車で3時間である。彼は、自転車で行けばいいんだと決意する。一晩がかり、の百キロを大幅に上回る走行であった。

菅山の顔は、汗と埃にまみれていたが、心は軽やかであった。自らの弱い心を制覇した“求道の王者”の入場であった。男子部の会合では、全参加者が、この“別海の勇者”を大拍手と大歓声で讃えた。彼らは、菅山の姿に、男子部魂を知った。

酪農の仕事には、時間的な制約が多い。菅山は、経済的にも苦闘を強いられていた。郵便配達や板金工場などのアルバイトをし、必死になって働きながら、学会活動に励んだ。5分、10分が貴重だった。
彼は、男子部の地区の責任者である「隊長」の任命を受けた。別海の男子部は、120人になっていた。菅山の活動の足も、オートバイへと変わっていた。百キロ、二百キロと走る日も珍しくなかった。


菅山は、男子部の支部責任者である「部隊長」となり、別海をはじめ、中標津、から弟子屈まで広がる広大な地域であり、面積は福岡県に匹敵した。ここを“戦野”に走りに走った。三百数十人で出発した陣容は、1年後、四百七十人へと拡大する。彼の地道で粘り強い行動と精神は、後輩たちに脈々と受け継がれていった。

第19回男子部総会で、酪農家を志し、東京から別海に移住した杉高優が、8年で得た勝利の歩みを体験発表し、「別海」の名が、一躍、全国に轟いた。杉高のもとへ、通ったのが、菅山が通い続け、立ち上がった青年であった。杉高は、祈りと、努力と、工夫で、経営を立て直し、先輩が自分にしてくれたように、地道に訪問指導を続けた。

杉高の体験談をもとに、学会本部では映画を製作した。タイトルは「開拓者」である。作品を鑑賞した伸一は言った。「別海から、こうしたすばらしい体験が生まれる背景には、皆を励まし、指導してきた“信心の開拓者”が、必ずいるはずだ」その“信心の開拓者”こそ菅山勝司であった。伸一は、菅山の敢闘を讃える一文を、書籍に記して贈った。伸一の励ましに、菅山は泣いた。

菅山は、“地域に、もっと信心の実証を示したい”と決意したが、資金はいたって乏しかった。彼は、原木の伐採から始め、製材や加工、建築などを独力で学びながら、牛舎も、サイロも、すべて自分の手で造ることにした。農機具も中古を購入し、自分で修理しながら使った。資料も自給に努め、牧草を研究し、栄養価の高い草を育て、見事な黒字経営となった。人びとの奇異の目は、感嘆と敬意の目へと変わった。


太字は 『新・人間革命』第27巻より 抜粋