『新・人間革命』第27巻 正義の章 174p~
一つ、また一つと解決していくこともあれば、一挙に悩みが解決することもあるでしょう。また、自分を悩ませていた問題は続いていたとしても、それに翻弄されて苦しんだり、そのことに負けたりしない自分を、確立していくことができるんです。境涯革命することができるからなんです。そうした体験の積み重ねが、仏法への確信を深め、強めていくんです」
学会草創の時代、創価の同志は、病弱や経済苦、家庭不和などの悩みを抱えながら、喜々として折伏・弘教に歩いた。だが、素直に耳を傾ける人は、いたって少なくなかった。嘲笑され、罵詈雑言を浴びせられ、なかには、村八分にされた人もいた。
それでも、草草の同志は負けなかった。なぜかーー難が競い起こったことで、先輩から聞かされてきた。御書、経文の通りであることを実感したからである。それが、歓喜と確信となり、ますます闘魂を燃え上がらせ、弘教の駒を進めてきたのだ。
勇気ある挑戦は、さらに大歓喜を呼び起こし、確信を強く、不動のものにしていく。その歓喜と確信が大生命力を湧現させ、あらゆる困難をはね返して、勇んで弘教へと突き進む原動力となっていくのだ。
一言すれば、草創の同志の強さは、ただひたすら、体当たりの思いで、折伏・弘教を実践していったことにある。それによって、地涌の菩薩の大生命が、大聖人の眷属たる大歓喜が、我が胸中に脈動していったのだ。ゆえに、何があっても屈することなく、勇猛果敢に戦い続けることができたのである。
折伏行に勝る力はない。その実践の積み重ねのなかで、強き信心が培われていくのだ。
静岡指導を終えた山本伸一は、中部指導に向かった。三重の婦人部長が伸一に、三重文化祭で「今日も元気で」を歌わせてほしいと訴えてきた。
この文化祭には、中部布教区の僧侶らも招待していた。学会員が会長山本伸一に全幅の信頼を寄せ、師と仰ぐことに対して、批判の矛先を向ける僧たちもいたのである。そうした僧を刺激してはまずいと考えてか、この歌は歌わない方向に決まったようであった。
しかし、婦人部は納得できなかった。“どうして、師匠を敬愛する心を隠さなければならないのか!どこかおかしい!”結局、「今日も元気で」は、三重文化合唱祭で歌われることになったのである。
学会の根幹をなすのは、崇高な師弟の精神である。それは、いかに批判されようが、時代がどんなに変わろうが、絶対に変わってはならない。“創価の魂”である。広宣流布の大潮流も、この師弟という生命の脈動から生まれるのである。
日蓮門下の最重要事は、広宣流布の大誓願の実現である。それを現実に推進してきたのが、創価の師弟である。そのこと自体が、創価学会が仏意仏勅の団体であることの、まぎれもない証明といえよう。学会の発展があってこそ、宗門を外護することができ、宗門も興隆してきた。これは、厳然たる事実であり、そこに広宣流布の確かな軌道があったのである。伸一は、この事実についても、僧侶たちと、根気強く徹底的に話し合わねばならないと思っていた。
本部幹部会の翌日、4月23日、三重研修道場の白山公園で、初の三重文化合唱祭が開催された。伸一は、文化合唱祭のあと、出席した僧侶と懇談会をもった。彼は、“学会は、どこまでも広宣流布のために、死身弘法の誠を尽くしながら、宗門を守り抜く決意であり、さらに連携を取り合い、前進していきたい”との思いを語った。
翌日、伸一は、周辺の理容店や日用品店に足を運び、日ごろの学会への尽力に対して、御礼を述べた。それから、白山町の三沢カツ子の家に向かった。彼女は、この地域の婦人部本部長をしており、研修道場で大きな行事があるときには、三沢の家が婦人部のさまざまな準備の会場として使われてきた。
また、三沢の母親・波多光子は、この地域の学会の草創期を切り開いた一人であった。76歳であった。伸一は、彼女が入会にいたった経緯や、広宣流布の苦闘の幾山河について、次々と尋ねていった。波多の体験を通して、集ってきた同志と共に、“本当の信心とは何か”を確認しておきたかったからである。
学会草創の時代、創価の同志は、病弱や経済苦、家庭不和などの悩みを抱えながら、喜々として折伏・弘教に歩いた。だが、素直に耳を傾ける人は、いたって少なくなかった。嘲笑され、罵詈雑言を浴びせられ、なかには、村八分にされた人もいた。
それでも、草草の同志は負けなかった。なぜかーー難が競い起こったことで、先輩から聞かされてきた。御書、経文の通りであることを実感したからである。それが、歓喜と確信となり、ますます闘魂を燃え上がらせ、弘教の駒を進めてきたのだ。
勇気ある挑戦は、さらに大歓喜を呼び起こし、確信を強く、不動のものにしていく。その歓喜と確信が大生命力を湧現させ、あらゆる困難をはね返して、勇んで弘教へと突き進む原動力となっていくのだ。
一言すれば、草創の同志の強さは、ただひたすら、体当たりの思いで、折伏・弘教を実践していったことにある。それによって、地涌の菩薩の大生命が、大聖人の眷属たる大歓喜が、我が胸中に脈動していったのだ。ゆえに、何があっても屈することなく、勇猛果敢に戦い続けることができたのである。
折伏行に勝る力はない。その実践の積み重ねのなかで、強き信心が培われていくのだ。
静岡指導を終えた山本伸一は、中部指導に向かった。三重の婦人部長が伸一に、三重文化祭で「今日も元気で」を歌わせてほしいと訴えてきた。
この文化祭には、中部布教区の僧侶らも招待していた。学会員が会長山本伸一に全幅の信頼を寄せ、師と仰ぐことに対して、批判の矛先を向ける僧たちもいたのである。そうした僧を刺激してはまずいと考えてか、この歌は歌わない方向に決まったようであった。
しかし、婦人部は納得できなかった。“どうして、師匠を敬愛する心を隠さなければならないのか!どこかおかしい!”結局、「今日も元気で」は、三重文化合唱祭で歌われることになったのである。
学会の根幹をなすのは、崇高な師弟の精神である。それは、いかに批判されようが、時代がどんなに変わろうが、絶対に変わってはならない。“創価の魂”である。広宣流布の大潮流も、この師弟という生命の脈動から生まれるのである。
日蓮門下の最重要事は、広宣流布の大誓願の実現である。それを現実に推進してきたのが、創価の師弟である。そのこと自体が、創価学会が仏意仏勅の団体であることの、まぎれもない証明といえよう。学会の発展があってこそ、宗門を外護することができ、宗門も興隆してきた。これは、厳然たる事実であり、そこに広宣流布の確かな軌道があったのである。伸一は、この事実についても、僧侶たちと、根気強く徹底的に話し合わねばならないと思っていた。
本部幹部会の翌日、4月23日、三重研修道場の白山公園で、初の三重文化合唱祭が開催された。伸一は、文化合唱祭のあと、出席した僧侶と懇談会をもった。彼は、“学会は、どこまでも広宣流布のために、死身弘法の誠を尽くしながら、宗門を守り抜く決意であり、さらに連携を取り合い、前進していきたい”との思いを語った。
翌日、伸一は、周辺の理容店や日用品店に足を運び、日ごろの学会への尽力に対して、御礼を述べた。それから、白山町の三沢カツ子の家に向かった。彼女は、この地域の婦人部本部長をしており、研修道場で大きな行事があるときには、三沢の家が婦人部のさまざまな準備の会場として使われてきた。
また、三沢の母親・波多光子は、この地域の学会の草創期を切り開いた一人であった。76歳であった。伸一は、彼女が入会にいたった経緯や、広宣流布の苦闘の幾山河について、次々と尋ねていった。波多の体験を通して、集ってきた同志と共に、“本当の信心とは何か”を確認しておきたかったからである。
太字は 『新・人間革命』第27巻より 抜粋