『新・人間革命』第27巻 若芽の章 66p~
児童の家庭は、さまざまであった。有竹正義という児童がいた。両親は、彼が5歳の時に離婚し、母親の富美枝が正義を育てた。
会社に勤めたが、得られる収入では、食べていくのがやっとであった。彼女は、“お金のことは、なんとかしよう!親の私が塩をなめてでも、息子を創価小にいかせよう!”母は強い。母は一途である。母は勇敢である。その母ありて、師子は育つ。
近隣の母親たちから、“私立の小学校は、どこも、家柄のよい、富裕層の子弟しか入学させない”という噂話を耳にして、面接の間も涙があふれてしかたがなかったが、選考の結果、合格となった。
入学して間もなく、知人から 今までの3倍の給料の会計事務所を紹介され転職。家計は楽になった。仕事は増え、帰宅が深夜になることがあっても、朝は、息子と一緒に勤行し、学校行へ送り出した。伸一は、正義の母親が大変な思いをして、子息を創価小に通わせているとの報告を聞いていた。
創価小の「銀河のつどい」に出席した折、正義と懇談し、お土産を渡した。正義は、創立者が母の苦労を知ってくれていることが嬉しかった。苦労を知ってくれる人がいるだけで、勇気を得ることができる。その苦労をたたえられることは、最大の励ましとなる。
創価小卒業後、正義は創価大学に進み、大学三年の時、初挑戦で公認会計士試験に合格し、長い長い、母の苦闘も、実を結んだのである。
山本伸一は、自らの信念を吐露するように語った。「創価小学校には、経済的に大変な家庭のお子さんだけでなく、体の不自由なお子さんも入学してくるでしょう。その一人ひとりが、最高の人生を歩めるように、強く、大きな心の子どもに育てていってください。何があっても負けない子どもを育むのが創価教育です」
4年生として公立の小学校から転入学してきた久藤智代は、左足に障害があった。一歳半の時、踏切で事故に遭い、左脛の中ほどから下を失ったのである。さらに、4歳の時、母親が他界し、再婚した継母に育てられる。継母から創価小受験を勧められたのだが、通学に片道1時間半ほど、乗り継ぎが5回あり、通勤ラッシュ時と重なり、押しつぶされそうになりながらの通学は、心身ともに疲れた。
伸一は、久藤に会い、何があっても負けない強い心をもってほしいと語った。伸一は、久藤への接し方について教師たちに語った。「彼女については、細やかな心配りをしていくことは大切ですが、特別扱いをすべきではありません。ほかの児童と同じように、なんにでも挑戦させるようにしてください。そうでないと、社会で自立することができなくなってしまいます。そうなれば、本人がかわいそうです」人間として子どもを自立させていくことにこそ、教育の眼目があるのだ。彼女は、大学卒業後、大手商社勤務を経て、やがて福祉の道を志すことになる。
本川雅広という児童が、5年生になった時、父親の会社倒産する。莫大な借金の取り立てに、小学校にも父親の情報を聞き出そうとの電話がかかった。教員たちも、待ち伏せされないよう気を配った。伸一は、本川に「一番苦しんでいるのはお父さんだよ。お父さんに代わって、お母さんたちを守ってね」と話した。それを聞いた父親は、懸命に働き、家計を切り詰め、息子に大学まで一貫教育を受けさせ、妹も創価の学舎に通わせた。
雅広は、大学時代、スペイン語を勉強し、アルゼンチンのブエノスアイレス大学に留学。卒業後は、自ら翻訳会社を設立。世界平和を願い、文化の交流に寄与していくことになる。
山本伸一は創価小の開校以来、逆境に立たされた児童がいると、自分の生命を削る思いで励ましてきた。最も苦しんでいる子どもの力にならずして、
教育の道はない。人間の道はない。
母親が他界した林田新華と弟の弘高を呼び、語らいの機会をもち、生涯子どもたちを見守り続けていこうと思った。伸一・峰子の励ましに、姉弟は、“師子のように強く、勇気をもって生きよう”と、深く心に誓い、姉の新華は、母と同じ看護師となり、弟の弘高は、聖教新聞社の記者となった。
児童の家庭は、さまざまであった。有竹正義という児童がいた。両親は、彼が5歳の時に離婚し、母親の富美枝が正義を育てた。
会社に勤めたが、得られる収入では、食べていくのがやっとであった。彼女は、“お金のことは、なんとかしよう!親の私が塩をなめてでも、息子を創価小にいかせよう!”母は強い。母は一途である。母は勇敢である。その母ありて、師子は育つ。
近隣の母親たちから、“私立の小学校は、どこも、家柄のよい、富裕層の子弟しか入学させない”という噂話を耳にして、面接の間も涙があふれてしかたがなかったが、選考の結果、合格となった。
入学して間もなく、知人から 今までの3倍の給料の会計事務所を紹介され転職。家計は楽になった。仕事は増え、帰宅が深夜になることがあっても、朝は、息子と一緒に勤行し、学校行へ送り出した。伸一は、正義の母親が大変な思いをして、子息を創価小に通わせているとの報告を聞いていた。
創価小の「銀河のつどい」に出席した折、正義と懇談し、お土産を渡した。正義は、創立者が母の苦労を知ってくれていることが嬉しかった。苦労を知ってくれる人がいるだけで、勇気を得ることができる。その苦労をたたえられることは、最大の励ましとなる。
創価小卒業後、正義は創価大学に進み、大学三年の時、初挑戦で公認会計士試験に合格し、長い長い、母の苦闘も、実を結んだのである。
山本伸一は、自らの信念を吐露するように語った。「創価小学校には、経済的に大変な家庭のお子さんだけでなく、体の不自由なお子さんも入学してくるでしょう。その一人ひとりが、最高の人生を歩めるように、強く、大きな心の子どもに育てていってください。何があっても負けない子どもを育むのが創価教育です」
4年生として公立の小学校から転入学してきた久藤智代は、左足に障害があった。一歳半の時、踏切で事故に遭い、左脛の中ほどから下を失ったのである。さらに、4歳の時、母親が他界し、再婚した継母に育てられる。継母から創価小受験を勧められたのだが、通学に片道1時間半ほど、乗り継ぎが5回あり、通勤ラッシュ時と重なり、押しつぶされそうになりながらの通学は、心身ともに疲れた。
伸一は、久藤に会い、何があっても負けない強い心をもってほしいと語った。伸一は、久藤への接し方について教師たちに語った。「彼女については、細やかな心配りをしていくことは大切ですが、特別扱いをすべきではありません。ほかの児童と同じように、なんにでも挑戦させるようにしてください。そうでないと、社会で自立することができなくなってしまいます。そうなれば、本人がかわいそうです」人間として子どもを自立させていくことにこそ、教育の眼目があるのだ。彼女は、大学卒業後、大手商社勤務を経て、やがて福祉の道を志すことになる。
本川雅広という児童が、5年生になった時、父親の会社倒産する。莫大な借金の取り立てに、小学校にも父親の情報を聞き出そうとの電話がかかった。教員たちも、待ち伏せされないよう気を配った。伸一は、本川に「一番苦しんでいるのはお父さんだよ。お父さんに代わって、お母さんたちを守ってね」と話した。それを聞いた父親は、懸命に働き、家計を切り詰め、息子に大学まで一貫教育を受けさせ、妹も創価の学舎に通わせた。
雅広は、大学時代、スペイン語を勉強し、アルゼンチンのブエノスアイレス大学に留学。卒業後は、自ら翻訳会社を設立。世界平和を願い、文化の交流に寄与していくことになる。
山本伸一は創価小の開校以来、逆境に立たされた児童がいると、自分の生命を削る思いで励ましてきた。最も苦しんでいる子どもの力にならずして、
教育の道はない。人間の道はない。
母親が他界した林田新華と弟の弘高を呼び、語らいの機会をもち、生涯子どもたちを見守り続けていこうと思った。伸一・峰子の励ましに、姉弟は、“師子のように強く、勇気をもって生きよう”と、深く心に誓い、姉の新華は、母と同じ看護師となり、弟の弘高は、聖教新聞社の記者となった。
太字は 『新・人間革命』第27巻より 抜粋