『新・人間革命』第27巻 若芽の章 32p~

学歴偏重から、国立や有名私立大学の付属中学校、中高一貫の有名校への受験が過熱し、進学塾通いや模擬テストに追われる小学生が少なくなかった。

また、都市開発などによって、遊び場は失われ、皆で遊ぶ子どもたちの姿は、ほとんど見られなくなっていた。

学齢期にあたる小学生は、学校生活や交友関係の中で、社会への適応力を培っていくとともに、知的興味も増し、思考力も一段と発達する年代である。また、体力的にも基礎をつくる大切な時期といってよい。

過熱化する受験競争の中で、知育ばかりが重視され、徳育、体育はなおざりにされていたのだ。それによって教育は、大きなほころびを見せ始めていたのである。

教育の根本には、人間をいかにとらえるかという、正しい人間観がなければならない。

児童の多くの親たちは、“有名中学に入ることが、偏差値の高い有名大学に進むことにつながり、それが一流企業など、社会的評価も高く、高収入で安定した職業に就く道である。そして、そこに人生の幸福がある”との考えに立っていた。

しかし、社会は常に変化を遂げ、企業の永続的な安定を保証するものなど何もない。希望する企業に入ったとしても、必ずしも、希望する仕事に就けるとは限らない。また、長い人生にあっては、人間関係で苦しむこともあれば、病に倒れることもあろう。

したがって、子どもたちが幸福を築き上げるには、知識だけでなく、どんな事態に遭遇しようが、怯まずに困難を乗り越えていける精神の力や知恵、向上心、挑戦心などを培うことが大切な要件となる。そして、そのための基盤をつくる時代の始まりが学齢期であると、山本伸一は考えていた。

そもそも、牧口常三郎の創価教育学は、教育の目的は子ども自身の幸福にあるとし、“どうすれば障害、幸福生活を送らせることができるか”をテーマにしている。

自身のなかの無限の創造性を開花させて、価値創造の喜びの人生を歩むことが、幸福生活であると考えたのである。したがって彼は、知識の切り売りや、暗記中心の「詰め込み教育」に厳しい眼をむけた。

教育は、知識を与えることを目的とするのではなく、自分で考え、自分で得た知識を生かしていく方法を会得するためにあるのだ。

児童が勉強への興味、関心をいだき、自ら学べる素地をつくらなければ、「ゆとり教育」は、結果的に、学力の低下をもたらすだけになりかねないからである。ゆえに、彼は、初等教育の新しい道を開こうと、創価教育を実践する小学校の創立を決断したのだ。

1974年(昭和49年)7月に創価小学校設立準備委員会がスタートした。この年、伸一は、中国とソ連を初訪問している。世界の初等教育の現場を視察して、子どもたちと交流を図り、さまざまな角度から小学校の在り方を考えてみたかったのである。

そのなかで彼は、創価小学校は日本一国という視点ではなく、世界の平和に貢献できる、世界市民を育てる学校にしなければならないとの思いを、強くするのであった。

教育は、子どもたちが、より良い人生を生き抜くためにある。ただ知識の習得に終わるのではなく、人間の心を育まねばならないというのが、彼の一貫した考え方であった。

建設予定地が史跡指定地となったり、児童の健康を考えた間取りを考えて、敷地や設計の変更が繰り返され、工事が始まったのは、開校まで、1年を切った時だった。工事は急ピッチで進められていった。かなりの突貫工事になることが予想された。

伸一は関係者にかなりのご苦労をおかけするのではないかと考え、作業服に身を包んだ鈴木所長に語りかけ、自分の思いを率直に語り、握手を交わした。東京創価小学校を建設する意義に、深く感銘してくれたようであった。

物事の意義を深く理解し、共感することから、ますます大きな活力と闘魂が生まれる。“工事は、なんとしても間に合わせる!”その鈴木の一念と気迫に打たれ、現場の作業員も懸命に努力してくれた。

優れたリーダーの要件とは何か。それは、まず自らが、絶対に目的を成就すると決めて、率先垂範で物事に取り組むことである。そして、自分と同じ思いで、共に行動してくれる人たちへの、感謝と配慮を忘れぬことである。



太字は 『新・人間革命』第27巻より 抜粋