『新・人間革命』第27巻 若芽の章 7p~
<新・人間革命 第27巻開始>
<若芽の章 開始>
1978年(昭和53年)4月9日東京創価小学校の第一回入学式が晴れやかに行われたのである。校長の新木高志が、「明るい子」「思いやりのある子」「ねばり強い子」という低学年のモットーを紹介した。
学園の理事の一人が、創立者・山本伸一のメッセージを読み上げた。メッセージのなかで伸一は、『イソップ物語』の「塩を運ぶロバ」の話を紹介した。
伸一は、まず子供たちに、困難に挑むという、人としての最も大切な生き方を教えておきたかったのである。困難を避ける生き方が身についてしまえば、最終的に、子ども自身が不幸になってしまうからだ。
伸一は、学年ごとに児童と記念撮影し、最後に教職員ともカメラに納まった。それから正門の近くに移動し、開校を記念する植樹に臨んだ。
入学式前日、山本伸一は、創価中学・高校の入学記念祝賀会に出席したあと、新木に案内され、小学校を視察したのである。伸一は、教員たちと握手を交わした。
「最初の授業というのは大事なんです。その時に、子どもたちが“勉強って面白いな”と思えれば、しっかり学んでいくようになるでしょう。何事も始めが肝心なんです」
教育者でもあったフィリピン独立の父ホセ・リサールは「一度みんなの前でほめられた子どもは、次の日にはその倍も勉強して来ます」と記している。自信は、成長をもたらす力である。
伸一は、教員たちに言った。「放任はいけないが、過保護であってもいけません。過保護であれば、人間としてなかなか自立できず、臆病で挑戦心が乏しい子どもになってしまいがちです。
子どもの将来を考え、一人ひとりが、幸福な人生を生き抜くために、何が大切かを熟慮し、教育にあたっていくんです。皆さんが、この学校で行っていくことは、子どものための教育革命でもあるんです」
創価小学校への期待は大きかった。「東京の創価中学・高校の開校からちょうど10年になる。この間に創価大学が開学し、大学院もできた。大阪には創価女子中学・高校も開校し、札幌には創価幼稚園も開園した。創価の人間教育が、各地で輝きを放ち始めています。
そして、東京の小学校開校によって、創価の一貫教育が完成した。いよいよ“創価教育”建設の第二期を迎えたんです」彼は、小学校の設立を、創価一貫教育完成の、重要な事業と考えてきた。
創価教育の父・牧口常三郎と、その弟子である戸田城聖が、実際に教壇に立ち、最も力を入れて取り組んだのが初等教育であった。それだけに伸一も、小学校の設立に、一段と情熱を傾け、力を注いできた。
大事業は、一代で成し遂げられるものではない。弟子が、さらに、そのまた弟子が、先師の志を受け継ぎ、創業の思いで、全身全霊を注いでこそ、成就されるものである。
弟子は、師が道を開いてくれたからこそ、大業に連なることができる。師は、弟子が事業を継承してくれるからこそ、大願の成就がある。永遠なる師弟の流れがありてこそ、新しき創価の大潮流がつくられていくのである。
牧口は、自らの教育実践と思索をもとに、創価教育学の体系をつくり上げた。創価の一貫教育の学校をつくることは、牧口の、さらに、戸田の念願であった。
戸田は、牧口の創価教育学を、私塾「時習学館」で実践し、その成果を世に示した。しかし、それは、師の教育思想、教育実践の一貫を実証したにすぎなかった。
今、戸田の弟子・伸一の手で、幼稚園から大学院までの本格的な創価の教育城が完成をみたのである。
伸一は、日本の小学校教育の現状を考えれば考えるほど、創価小学校を開校して、模範の教育を行い、進むべき教育の道を示さねばならないと痛感してきた。
当時、「知育偏重」「詰め込み教育」などの指摘が繰り返されていたように、人間教育は忘れ去れていたからである。
<新・人間革命 第27巻開始>
<若芽の章 開始>
1978年(昭和53年)4月9日東京創価小学校の第一回入学式が晴れやかに行われたのである。校長の新木高志が、「明るい子」「思いやりのある子」「ねばり強い子」という低学年のモットーを紹介した。
学園の理事の一人が、創立者・山本伸一のメッセージを読み上げた。メッセージのなかで伸一は、『イソップ物語』の「塩を運ぶロバ」の話を紹介した。
伸一は、まず子供たちに、困難に挑むという、人としての最も大切な生き方を教えておきたかったのである。困難を避ける生き方が身についてしまえば、最終的に、子ども自身が不幸になってしまうからだ。
伸一は、学年ごとに児童と記念撮影し、最後に教職員ともカメラに納まった。それから正門の近くに移動し、開校を記念する植樹に臨んだ。
入学式前日、山本伸一は、創価中学・高校の入学記念祝賀会に出席したあと、新木に案内され、小学校を視察したのである。伸一は、教員たちと握手を交わした。
「最初の授業というのは大事なんです。その時に、子どもたちが“勉強って面白いな”と思えれば、しっかり学んでいくようになるでしょう。何事も始めが肝心なんです」
教育者でもあったフィリピン独立の父ホセ・リサールは「一度みんなの前でほめられた子どもは、次の日にはその倍も勉強して来ます」と記している。自信は、成長をもたらす力である。
伸一は、教員たちに言った。「放任はいけないが、過保護であってもいけません。過保護であれば、人間としてなかなか自立できず、臆病で挑戦心が乏しい子どもになってしまいがちです。
子どもの将来を考え、一人ひとりが、幸福な人生を生き抜くために、何が大切かを熟慮し、教育にあたっていくんです。皆さんが、この学校で行っていくことは、子どものための教育革命でもあるんです」
創価小学校への期待は大きかった。「東京の創価中学・高校の開校からちょうど10年になる。この間に創価大学が開学し、大学院もできた。大阪には創価女子中学・高校も開校し、札幌には創価幼稚園も開園した。創価の人間教育が、各地で輝きを放ち始めています。
そして、東京の小学校開校によって、創価の一貫教育が完成した。いよいよ“創価教育”建設の第二期を迎えたんです」彼は、小学校の設立を、創価一貫教育完成の、重要な事業と考えてきた。
創価教育の父・牧口常三郎と、その弟子である戸田城聖が、実際に教壇に立ち、最も力を入れて取り組んだのが初等教育であった。それだけに伸一も、小学校の設立に、一段と情熱を傾け、力を注いできた。
大事業は、一代で成し遂げられるものではない。弟子が、さらに、そのまた弟子が、先師の志を受け継ぎ、創業の思いで、全身全霊を注いでこそ、成就されるものである。
弟子は、師が道を開いてくれたからこそ、大業に連なることができる。師は、弟子が事業を継承してくれるからこそ、大願の成就がある。永遠なる師弟の流れがありてこそ、新しき創価の大潮流がつくられていくのである。
牧口は、自らの教育実践と思索をもとに、創価教育学の体系をつくり上げた。創価の一貫教育の学校をつくることは、牧口の、さらに、戸田の念願であった。
戸田は、牧口の創価教育学を、私塾「時習学館」で実践し、その成果を世に示した。しかし、それは、師の教育思想、教育実践の一貫を実証したにすぎなかった。
今、戸田の弟子・伸一の手で、幼稚園から大学院までの本格的な創価の教育城が完成をみたのである。
伸一は、日本の小学校教育の現状を考えれば考えるほど、創価小学校を開校して、模範の教育を行い、進むべき教育の道を示さねばならないと痛感してきた。
当時、「知育偏重」「詰め込み教育」などの指摘が繰り返されていたように、人間教育は忘れ去れていたからである。
太字は 『新・人間革命』第27巻より 抜粋