『新・人間革命』第25巻 人材城の章 356p~
五木村でも、死者・行方不明者11人、流失・全壊家屋144戸、半壊家屋45戸という甚大な被害に見舞われたのである。学会では、直ちに、派遣隊を結成し、被災地入りした。川は随所で氾濫し、家が流され、山津波にのみ込まれた家も続出した。道が土砂で埋もれ、孤立してしまった集落もある。
五木の同志は、派遣隊への伸一の伝言を聞くと涙が止まらなかった。そして、被災者である彼らの多くが、派遣隊と共に、救援活動に奔走したのだ。
五木村は旧習が深く、土俗信仰が盛んな地域であった。学会への無認識と偏見から、反発が起こった。ある集落では、周囲の反対のうえに、会員間の怨嫉問題もあり、十数世帯ほどいた学会員が、一時は、3世帯にまでなってしまったという歴史があった。困難とは、発展のための階段である。
そのなかで起こった集中豪雨であった。学会の派遣隊は、川に架けられたロープを使って、濁流を越え、孤立した集落に救援物資を運んだ。派遣隊が背負った物資の荷物には、同志のための「聖教新聞」もくくりつけられていた。
五木村では、同志の奮闘が、大きく学会理解の輪を広げる結果となった。「学会の人が、自身も被災しながら、派遣隊と一緒に救援活動する姿に、勇気を得た」と語る人もいた。非常事態は、人間のさまざまな虚飾を取り除く、その時、信仰によって培われた人間性の地肌が、輝きを放つのである。
治水のため、ダム建設の計画が具体化していったのである。幾人ものメンバーから村の様子について綴られた手紙が伸一に届く。伸一は、長男が生まれたころ「五木の子守歌」を聞いた時、その哀切な調べが胸を突いた。守子は、7歳~15歳ぐらいまでの少女で、多くは、他郷から守子に出された貧しい家の子であり、学校も通わせてもらえなかったいたいけな娘の姿が、目に浮かんだ。
歌には自分の境遇への諦めが漂っているように感じられたが、後年、70ほどの子守歌を収めた一冊の本を読んで、守子たちの強かな感情の表出を見た思いがした。そこには、自分の置かれた境遇をただ嘆きつつ、耐え忍ぶだけの、か弱い乙女の姿とは、別の顔が浮かび上がる。不条理への抗議の心が、あふれ出ていた。人間には、誰もが力を秘め、そして、誰にでも、幸せになる権利があるのだ。
守子たちは、路上などに集まって子守をした。彼女たちの強かさを支えたものの一つは、守子同士の"姉妹的結合"であったことは間違いない。孤独感は、心を弱くするが、人との強い絆を自覚するならば、心は鉄の強さを持つ。
大人社会の歪みの犠牲となる子どもたちの実態を、教育者としてつぶさに見て、改革に立ち上がったのが、初代会長の牧口常三郎であった。牧口自身も、その幼少期は不遇であったといってよい。
牧口は、1871年(明治4年)の6月6日新潟県柏崎市荒浜に生まれた。渡辺長松・イネの長男であり、長七と名づけられた。父は、北海道へ出稼ぎに行ったまま行方不明となり、母は再婚し、長七は、父長松の妹の嫁ぎ先牧口善太夫の養子となった。
13歳の時、北海道へ渡り、寸暇を見つけては読書と勉学に励み、推薦され、北海道尋常師範学校(北海道教育大学)に入学する。卒業すると同校付属小学校の教員としてスタートを切る。21歳の時、「長七」の名を「常三郎」と改めた。
彼は、地理学の研究を重ね、書き溜めた原稿を携え東京に渡った。1903年10月『人生地理学』を出版する。風土、地形、気候などの地理的現象が、人間生活にどのような関わり合いをもつかを探求した書であった。
出版直後から、中国人留学生のために設けられた弘文学院の教壇に立ち、地理学を教えた。同時期に、魯迅もこの学校で学んでいる。牧口は、彼らをこよなく敬愛し、大切に接した。中国の青年たちは、牧口の『人生地理学』を翻訳して、発刊している。
"学びたくとも学べない人に、修学の場を与え、学の光を送りたい"というのが、教育者・牧口の、一貫した姿勢であった。
その後、牧口は、東盛尋常小学校をはじめ、大正、西町、三笠、白金、麻布新堀の尋常小学校で、校長を歴任することになる。
太字は 『新・人間革命』第25巻より 抜粋
五木村でも、死者・行方不明者11人、流失・全壊家屋144戸、半壊家屋45戸という甚大な被害に見舞われたのである。学会では、直ちに、派遣隊を結成し、被災地入りした。川は随所で氾濫し、家が流され、山津波にのみ込まれた家も続出した。道が土砂で埋もれ、孤立してしまった集落もある。
五木の同志は、派遣隊への伸一の伝言を聞くと涙が止まらなかった。そして、被災者である彼らの多くが、派遣隊と共に、救援活動に奔走したのだ。
五木村は旧習が深く、土俗信仰が盛んな地域であった。学会への無認識と偏見から、反発が起こった。ある集落では、周囲の反対のうえに、会員間の怨嫉問題もあり、十数世帯ほどいた学会員が、一時は、3世帯にまでなってしまったという歴史があった。困難とは、発展のための階段である。
そのなかで起こった集中豪雨であった。学会の派遣隊は、川に架けられたロープを使って、濁流を越え、孤立した集落に救援物資を運んだ。派遣隊が背負った物資の荷物には、同志のための「聖教新聞」もくくりつけられていた。
五木村では、同志の奮闘が、大きく学会理解の輪を広げる結果となった。「学会の人が、自身も被災しながら、派遣隊と一緒に救援活動する姿に、勇気を得た」と語る人もいた。非常事態は、人間のさまざまな虚飾を取り除く、その時、信仰によって培われた人間性の地肌が、輝きを放つのである。
治水のため、ダム建設の計画が具体化していったのである。幾人ものメンバーから村の様子について綴られた手紙が伸一に届く。伸一は、長男が生まれたころ「五木の子守歌」を聞いた時、その哀切な調べが胸を突いた。守子は、7歳~15歳ぐらいまでの少女で、多くは、他郷から守子に出された貧しい家の子であり、学校も通わせてもらえなかったいたいけな娘の姿が、目に浮かんだ。
歌には自分の境遇への諦めが漂っているように感じられたが、後年、70ほどの子守歌を収めた一冊の本を読んで、守子たちの強かな感情の表出を見た思いがした。そこには、自分の置かれた境遇をただ嘆きつつ、耐え忍ぶだけの、か弱い乙女の姿とは、別の顔が浮かび上がる。不条理への抗議の心が、あふれ出ていた。人間には、誰もが力を秘め、そして、誰にでも、幸せになる権利があるのだ。
守子たちは、路上などに集まって子守をした。彼女たちの強かさを支えたものの一つは、守子同士の"姉妹的結合"であったことは間違いない。孤独感は、心を弱くするが、人との強い絆を自覚するならば、心は鉄の強さを持つ。
大人社会の歪みの犠牲となる子どもたちの実態を、教育者としてつぶさに見て、改革に立ち上がったのが、初代会長の牧口常三郎であった。牧口自身も、その幼少期は不遇であったといってよい。
牧口は、1871年(明治4年)の6月6日新潟県柏崎市荒浜に生まれた。渡辺長松・イネの長男であり、長七と名づけられた。父は、北海道へ出稼ぎに行ったまま行方不明となり、母は再婚し、長七は、父長松の妹の嫁ぎ先牧口善太夫の養子となった。
13歳の時、北海道へ渡り、寸暇を見つけては読書と勉学に励み、推薦され、北海道尋常師範学校(北海道教育大学)に入学する。卒業すると同校付属小学校の教員としてスタートを切る。21歳の時、「長七」の名を「常三郎」と改めた。
彼は、地理学の研究を重ね、書き溜めた原稿を携え東京に渡った。1903年10月『人生地理学』を出版する。風土、地形、気候などの地理的現象が、人間生活にどのような関わり合いをもつかを探求した書であった。
出版直後から、中国人留学生のために設けられた弘文学院の教壇に立ち、地理学を教えた。同時期に、魯迅もこの学校で学んでいる。牧口は、彼らをこよなく敬愛し、大切に接した。中国の青年たちは、牧口の『人生地理学』を翻訳して、発刊している。
"学びたくとも学べない人に、修学の場を与え、学の光を送りたい"というのが、教育者・牧口の、一貫した姿勢であった。
その後、牧口は、東盛尋常小学校をはじめ、大正、西町、三笠、白金、麻布新堀の尋常小学校で、校長を歴任することになる。
太字は 『新・人間革命』第25巻より 抜粋