『新・人間革命』第24巻 灯台の章 310p 

山本伸一が出席しての社会部勤行集会は、社会部員の自覚を一段と深めた。

大路直行は、大手自動車販売会社の、営業マンだったが、入社2年目で、売り上げは営業所で最下位。大きな壁に突き当たり、転職すべきか悩んでいた時、男子部の先輩に紹介された、自動車セールスマンの壮年部工藤重男に指導を受けた。

工藤は自分の体験をもとに、セールスの基本姿勢は、お客様の信頼を勝ち取ることであり、営業には、勇気と粘り強さが大事であることを訴えた。自分には能力がないから努力しかないと思って、人の倍努力したと話す。大路は自分の甘さを痛感する。

大路の疲れている様子を見て、工藤は、健康、生命力が大事だとの山本先生の指導を通し、強い生命力を湧現させるために、何があっても『題目第一』に徹し、特に朝の唱題に勝負をかけて、真剣に祈るところから一日を始めると話した。

大路は、「題目第一」「努力第一」でいこうと決めた。この月、大路は、車2台を売り上げ、年末には、職場で実績が評価され、表彰されるまでになったのである。

社会部の多くのメンバーが課題としていたのが、仕事と学会活動の両立であった。波留徳一も、仕事と学会活動の両立で、苦闘し続けてきた。多望さに流され、信仰の世界から遠ざかると 随所で行き詰まりを感じ始めた。

男子部の先輩が「天晴れぬれば地明らかなり法華を識る者は世法を得可きか」との御聖訓を引いて訴えた。強い信心に立てば、「大地」すなわち仕事も含めた生活の面でも、おのずから勝利していくことができる。だから、もう一度、信心で立ち上がるんだよと話してくれた。

波留は、もう一度、本気になって信心してみようと思った。仕事は、ますます増えていったが、学会活動は優先させた。"信心していれば、仕事の面でも守られる!"と言う確信があったからだ。だが、それがいつの間にか、甘え、油断となり、仕事が疎かになっていった。

遂に、上司から「仕事と信心とどっちが大事なんだ!」と叱責された。"これではいけない!周囲の人たちは自分の姿を通し、創価学会を見ているんだ"「信心第一、仕事も第一」と決めた。両立への本格的な挑戦が始まった。


学会活動に参加しても、深夜には、仕事に戻った。夜更けて、手紙を、メンバーの家のポストに入れてくることもあった。情熱を傾け、奮闘する青年には、生命の輝きがある。その光彩が、人を引き付ける。仕事でも、下請け業者や関係者が、彼のために協力態勢をつくり、支えてくれたのだ。

波留は、職場では、係長、課長と昇進し、店舗開発を一手に任されるようになっていった。そして、部長、取締役を歴任し、常務取締役になっていく。

「職場の勝利者に」--それは、既に創価学会の伝統となった。仏法即社会なれば、そこに、仏法の勝利があり、人間の勝利があるのだ。

山本伸一は、社会部のみならず、地域、社会に根を張る社会本部の各部メンバーを、徹底して激励しようと、深く心に決めていた。

伸一は、第一回「農村・団地部勤行集会」に出席した。旧習の深い地域で奮闘する農村部の友を、また、人間関係が希薄になりがちな団地で信頼と友好を広げる団地部の友を、ねぎらい、讃え、励ましたかったのである。

農村部と団地部が結成されたのは、1973年(昭和48年)10月24日であった。この年、世界は、深刻な食糧不足に脅かされていた。天災という非常事態が生じた時こそ、政治の深化が問われる。日本政府は、穀物の世界的な高騰への対応策として、麦や大豆などに生産奨励金を支払い、国内生産を拡大することや、輸入先の多元化、輸入穀物の備蓄などを打ち出した。

戦後日本農業は、食料の自給率を高めるため、増産政策を推進した。高度経済成長を迎えるころには、農村人口は都市に流失し始め、専業農家は減っていったが、生産者米価を引き上げると農家による生産の向上で 米の収量は 増大した。だが、その頃から 国民の食生活の変化により、米の消費は減少傾向にあった。

政府は米が余剰になると、生産調整のため、新田開発の抑制と、野菜などへの作付け転換を進め、農家は農外所得への依存を高めていった。田中角栄が「日本列島改造論」を掲げ、農地法を廃止するという構想に、農業関係者のあいだに危機感が走った。

そこに、世界的な食糧危機が起きたのだ。そのなかで、農村部が誕生した。