『新・人間革命』第23巻 敢闘の章 287p
<敢闘の章 開始>
<敢闘の章 開始>
時代も、社会も、時々刻々と変化を遂げていく。創価学会も、新しい人材が陸続と育ち、新しい会館や研修所も次々と誕生し、新時代を迎えようとしていた。しかし、いかに時代や環境が変わろうが、絶対に変わってはならないものがある。それは、広宣流布に生き抜く「創価の師弟の精神」である。
1976年(昭和51年)男女青年部が結成25周年を迎え、広宣流布の新しい時代に入った今こそ、後継の青年たちに、その精神を脈々と伝え抜いていかねばならないと考えていた。
全国から集って来た女子部「青春会」のメンバーと共に勤行し、指導・激励した。伸一は、何のための信仰かを、メンバーに心の底からわかってもらいたいとの思いから、女子柄の一生に即して、宿命について語っていった。
苦悩なき人生はない。それらの苦悩、宿命との格闘劇が、人生といえるかもしれない。その宿命を転換し、人生を勝ち越えていく、勇気と力の源泉が、仏法であり、信仰なのだ。そして、苦脳に負けない自信をつくり上げる場こそが、学会活動なのである。
伸一は、さらに、「生老病死」のなかの、「老」について語っていった。「若い時代に、懸命に信心に励み、将来、何のがあっても負けない、強い生命を培い、福運を積んでいくことが大事です。皆さんには、年老いて、"もっと、題目をあげておけばよかった""真面目に信心に励んでいればよかった""もっと、社会に貢献しておけばよかった"と、後になって悔いるような人生を送ってもらいたくない」
「ともかく、何があろうが、生涯、広宣流布に生き抜いていくことです。いざという時、『よし、やるぞ!』と決然と立ち上がり、勝利の旗を打ち立て、学会を守り抜いてください。そのための『青春会』です。21世紀の広宣流布の責任を担うのが皆さんです。その使命を絶対に忘れないでいただきたい」伸一は、未来の広宣流布を託すつもりで、全力で激励を重ねた。
三重の中部第一総合研修所に向かった。研修所の館内にある三重記念館内に入ると、初代・二代会長の遺品やゆかりの品々が展示されていた。
各地に、歴代会長の遺品等を展示した記念館や記念室をつくろうと提案したのは、山本伸一であった。牧口や戸田の闘争と、その精神を学び、継承していくうえで、遺品や、ゆかりの品々に触れることは、必要不可欠であると考えたからだ。
遺品や写真などを、直接、見ることができれば、師を偲ぶ縁となり、その存在を身近に感じることができる。また、その品々は、師の偉業を裏づける証拠ともなる。
「学会を永遠ならしめるために、師匠の魂魄を永遠にとどめる場所をつくらねばならない」というのが、戸田城聖の考えであった。戸田は、自分が使う会長室よりも立派な一室を、「牧口先生のための部屋」と定め、そこに、牧口の写真を飾った。
戸田は、それから、遺言を伝えるような厳粛な目で、伸一を見た。「将来、広宣流布のために、日本各地に会館をつくることになるだろう。いや、世界にも、多くの会館が誕生することになるだろう。また、断じて、そうしなければならない。その時には、『師と共に』という学会精神を、永遠ならしめるために、『恩師記念室』を設けて、創始者である牧口先生を偲び、顕彰していくのだ」
戸田の言葉は、伸一の胸を射た。どこまでも師匠の精神を伝え抜き、宣揚していこうとする心に、伸一は、熱いものが、胸に込み上げてきてならなかった。
創価学会の創立の日となった、1930年11月18日は、『創価教育学体系』の発行日である。思えば、この発刊自体が、師弟共戦の産物であった。
冬のある夜、牧口と戸田は、深夜まで語らいを続けていた。その席で、教育学説を残したいという牧口の考えを、戸田は、聞いたのだ。一小学校長の学説を出版したところで、売れる見込みはなく、引き受ける出版社もないことは明らかであった。
「先生、私がやります!」師の教育学説を実証しようと、私塾・時習学館を営んでいた戸田は、牧口の教育思想を世に残すために、全財産をなげうつ覚悟を定めたのである。
「私の教育学説に、どんな名前をつけるべきか・・・」「先生の教育学は、何が目的ですか」「一言すれば、価値を創造することだ」「創造の『創』と価値の『価』をとって『創価教育学』としたらどうでしょうか」師弟の語らいのなかから、「創価」の言葉は紡ぎ出されたのである。
太字は 『新・人間革命』第23巻より 抜粋1976年(昭和51年)男女青年部が結成25周年を迎え、広宣流布の新しい時代に入った今こそ、後継の青年たちに、その精神を脈々と伝え抜いていかねばならないと考えていた。
全国から集って来た女子部「青春会」のメンバーと共に勤行し、指導・激励した。伸一は、何のための信仰かを、メンバーに心の底からわかってもらいたいとの思いから、女子柄の一生に即して、宿命について語っていった。
苦悩なき人生はない。それらの苦悩、宿命との格闘劇が、人生といえるかもしれない。その宿命を転換し、人生を勝ち越えていく、勇気と力の源泉が、仏法であり、信仰なのだ。そして、苦脳に負けない自信をつくり上げる場こそが、学会活動なのである。
伸一は、さらに、「生老病死」のなかの、「老」について語っていった。「若い時代に、懸命に信心に励み、将来、何のがあっても負けない、強い生命を培い、福運を積んでいくことが大事です。皆さんには、年老いて、"もっと、題目をあげておけばよかった""真面目に信心に励んでいればよかった""もっと、社会に貢献しておけばよかった"と、後になって悔いるような人生を送ってもらいたくない」
「ともかく、何があろうが、生涯、広宣流布に生き抜いていくことです。いざという時、『よし、やるぞ!』と決然と立ち上がり、勝利の旗を打ち立て、学会を守り抜いてください。そのための『青春会』です。21世紀の広宣流布の責任を担うのが皆さんです。その使命を絶対に忘れないでいただきたい」伸一は、未来の広宣流布を託すつもりで、全力で激励を重ねた。
三重の中部第一総合研修所に向かった。研修所の館内にある三重記念館内に入ると、初代・二代会長の遺品やゆかりの品々が展示されていた。
各地に、歴代会長の遺品等を展示した記念館や記念室をつくろうと提案したのは、山本伸一であった。牧口や戸田の闘争と、その精神を学び、継承していくうえで、遺品や、ゆかりの品々に触れることは、必要不可欠であると考えたからだ。
遺品や写真などを、直接、見ることができれば、師を偲ぶ縁となり、その存在を身近に感じることができる。また、その品々は、師の偉業を裏づける証拠ともなる。
「学会を永遠ならしめるために、師匠の魂魄を永遠にとどめる場所をつくらねばならない」というのが、戸田城聖の考えであった。戸田は、自分が使う会長室よりも立派な一室を、「牧口先生のための部屋」と定め、そこに、牧口の写真を飾った。
戸田は、それから、遺言を伝えるような厳粛な目で、伸一を見た。「将来、広宣流布のために、日本各地に会館をつくることになるだろう。いや、世界にも、多くの会館が誕生することになるだろう。また、断じて、そうしなければならない。その時には、『師と共に』という学会精神を、永遠ならしめるために、『恩師記念室』を設けて、創始者である牧口先生を偲び、顕彰していくのだ」
戸田の言葉は、伸一の胸を射た。どこまでも師匠の精神を伝え抜き、宣揚していこうとする心に、伸一は、熱いものが、胸に込み上げてきてならなかった。
創価学会の創立の日となった、1930年11月18日は、『創価教育学体系』の発行日である。思えば、この発刊自体が、師弟共戦の産物であった。
冬のある夜、牧口と戸田は、深夜まで語らいを続けていた。その席で、教育学説を残したいという牧口の考えを、戸田は、聞いたのだ。一小学校長の学説を出版したところで、売れる見込みはなく、引き受ける出版社もないことは明らかであった。
「先生、私がやります!」師の教育学説を実証しようと、私塾・時習学館を営んでいた戸田は、牧口の教育思想を世に残すために、全財産をなげうつ覚悟を定めたのである。
「私の教育学説に、どんな名前をつけるべきか・・・」「先生の教育学は、何が目的ですか」「一言すれば、価値を創造することだ」「創造の『創』と価値の『価』をとって『創価教育学』としたらどうでしょうか」師弟の語らいのなかから、「創価」の言葉は紡ぎ出されたのである。