『新・人間革命』第23巻 学光の章 166p

78年(昭和53年)、第一期生は3年次に入った。3年次からは、すべて専門教育科目となる。30歳を超えたばかりの青年が、専門教育科目の難しさに、投げ出したいと弱音を吐いた。すると、初老の通教生が力を込めて言った。「私はこの年代だから、君よりも大変だ。私の場合、限界に挑戦するなんていうもんじゃない。限界からの挑戦なんだ。君は私よりずっと若いじゃないか。頑張ろうよ!」

厳しくも温かい言葉に、青年は奮起した。限界とは、自らの心がつくりだした幻影ともいえよう。学光祭のこの年のテーマは「限界からの挑戦」であった。それは、通教生たちの実感であり、また、心意気でもあったにちがいない。

夏季スクーリングでは、国家試験の説明会が行われた。参加者の共感を呼んだのは、司法試験に現役合格した創大生の体験発表であった。その挑戦のドラマは、皆の心を大いに鼓舞した。

競艇の選手をしている通教生が参加していた。徳島県の岩川武志である。岩川は決意した。"俺も、国家試験に挑戦してみよう!"体験には、現実に立ち向かう人間の苦悩があり、挑戦があり、実証がある。それゆえに、体験には説得力があり、人の心を動かすのだ。

岩川は競艇選手を引退し、勉強に専念した。しばらくは退職金で生活できるが、それも、2年間が限度である。翌80年初めて司法書士筆記試験を受けた。気ばかり焦り、さんざんな結果に終わった。学光祭に山本伸一が出席し、「自分自身に勝っていく人生を」と訴えた。

岩川は、"そうだ。自分が克服すべき本当の相手は試験ではない。自分自身だ!自分に勝てばよいのだ"彼は、奮い立った。通教生として社会に実証を示したいと、心の底から思った。創大通教の卒業生となり、2度目の司法書士筆記試験を受けた。8月からはタクシーの運転手をしながら発表を待った。
合格だった。その後、口述試験も合格し、晴れて司法書士となったのである。

2度目の国家試験の説明会で、社会保険労務士の合格体験を発表したのが、通教の法学部で4年目を迎えた藤野悦代であった。彼女は8年前に34歳で合格していた。

藤野の夫は、多額の借金を残して行方不明となり、負債が残り、祖母の家に子どもたちと母を連れて身を寄せた。昼は税理士事務所に勤め、夜も経理の仕事をした。将来のことを考え、社会保険労務士の資格を取るしかないと思った。

2度目の挑戦で合格した。女性の社会保険労務士としては、滋賀県の近江八幡市で第一号となった。仕事に取り組むなかで彼女は、民法や民事訴訟法など、多くの法律知識の必要性を痛感した。そして、創価大学に通信教育部が開設されると、法学部に入学したのである。

国家試験の説明会で、藤野の合格体験は、大きな反響を呼んだ。女で一つで三人の子どもを育てながらの、婦人の体験は、多くの参加者に共感をもたらし、"自分もやればできる!"との勇気を与えたのだ。苦労の度が深ければ深いほど、その体験は、多くの人に希望を与えることができる。自分の労苦は、人びとの光となるのである。

彼女は、通信教育も6年間で卒業を勝ち取り、さらに、裁判所の調停委員、司法委員としても活躍。通教で学んだ法律の知識を生かしながら、社会貢献していくことになる。

"通教生が集う機会があれば、私も、できる限り、なんらかのかたちで激励したい!"それが、山本伸一の思いであった。第一回「全国通教生大会」では、終了後に皆と記念撮影をした。

第二回大会では、合宿所でスピーチをした。「万人に学ぶ権利がある。ましてや、懸命に働いている人には、教育を受ける最大の権利がある。」

「大事なことは、前に向かい、光に向かい、向上のための努力をし続けた人が、真実の価値を創造することができるということです。また、そこに幸福があることを忘れないでください」皆が人生の勝利者に、皆が幸福博士にーーそれが、伸一の心からの願いであった。

3月には、創価大学で卒業面接試験が実施された。そして、経済学部、法学部、合計229人の卒業が決まったのである。

3月22日、第6回卒業式が行われたのである。通信教育部にとっては、初めての卒業生を送り出す、記念すべき式典となった。二階席には、通教生を支えた家族たちの姿もあった。

何事かを成し遂げるために、最大の力となるのは、家族の理解と協力である。一人の人の奮闘の陰には、必ず、それを支える人たちがいる。人間として大事なことは、その人たちへの感謝を絶対に忘れないことだ。



太字は 『新・人間革命』第23巻より 抜粋