『新・人間革命』第20巻 信義の絆の章 375P~

伸一は、ニューヨークから列車でワシントンDCへと向かった。そして、13日、彼は国務省を訪問した。ヘンリー・キッシンジャー国務長官と会談するためである。

1973年(昭和48年)1月、伸一は、ニクソン大統領あてのベトナム戦争の終結を呼びかける書簡を、人を介して、当時、大統領補佐官であったキッシンジャーに託し、届けてもらっていた。以来、何度か、キッシンジャーと手紙のやりとりをしてきた。そのなかで、「渡米の折には、ぜひとも立ち寄ってほしい」と言われていたのである。

キッシンジャー国務長官と山本伸一の会談は、長官の執務室で午後2時半から行われた。室内には、キッシンジャーと伸一、アメリカ側の通訳の三人しかいなかった。伸一が現下の国際情勢について話を切り出すと、長官の目が光った。

伸一は、キッシンジャーが1969年の1月にニクソン大統領の補佐官となって以来、その奮闘に目を見張ってきた。彼には、時代を読む鋭い洞察力があった。緻密な計画があった。そして、何よりも、エネルギッシュで果敢な行動力があった。

キッシンジャーは、冷徹な現実主義者であり、理想主義の対極にあるかのように評されてきた。しかし、理想を実現しようと思うならば、現実を凝視せねばならない。現実から目をそらすならば、そこにあるのは「理想」ではなく、「空想」である。

山本伸一は、1971年7月、キッシンジャーが大統領補佐官として密かに北京を訪問し、その後のニクソン訪中、米中対立改善への流れを聞いたことが忘れられなかった。それは、世界が驚き、息をのんだ、電撃的な中国訪問であった。

ベトナム戦争では、米軍の漸次撤退を推進し、さらに和平実現の陰の力となってきた。伸一は、それらの行動のなかに、平和への屈強な信念を見ていた。

キッシンジャーは38年15歳の時に、家族と共に、ドイツからニューヨークに渡ってきた。当時、ドイツはヒトラーの政権下にありユダヤ人への迫害は、日に日に激しさを加えていた。彼の一家も、そのターゲットになったのである。キッシンジャーも、少年時代から、働きながら夜学に通った。苦闘の青春でであった。だが、それゆえに、彼の人生の勝利があったといえよう。

1973年には、ベトナム和平協定を推進したことが高く評価され、ノーベル平和賞を受賞している。語らいのなかで長官は、伸一に尋ねた。「あなたたちは、世界のどこの勢力を指示しようとお考えですか」

伸一は、言下に答えた。「私たちは東西両陣営のいずれかにくみするものではありません。私たちは、平和勢力です。人類に味方します」それが、人間主義ということであり、伸一の立場であった。

会談では、中東問題、米ソ・米中関係、SALT(戦略兵器制限交渉)などがテーマになっていった。平和の道をいかに開くかーー二人の心と心は教鳴音を響かせながら、対話は進んだ。

この会談で、山本伸一は、風雲急を告げる世界の火薬庫・中東の問題について、和平実現のために、何点かにわたる提案をしようと思っていたのである。

伸一は、キッシンジャー国務長官の中東和平への懸命な努力に、期待をいだいていた。そして、中東地域に恒久的な平和を実現してほしいと切望していたのだ。

伸一の提案は、具体的な和平交渉の次元を超えたものであり、より根本的な長期的な、平和のための理念を示すものであった。いわば、中東の平和に関する基本原則を提示したのである。

中東問題は歴史的な深い原因があることから、もつれた糸のような状態になっていた。もはや一時的な対症療法的な対応策では、本質的な問題の解決は図れない状況であった。だから伸一は、和平のための基本原則を提案しようと考えたのだ。

しかし、会談の席で、この問題を詳細に論じれば、長い時間がかかってしまう。そこで、多忙な長官が貴重な時間を長く使わなくてすむように、提案を4百字詰め原稿用紙10枚ほどにまとめ、その英訳を用意してきていたのである。


太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋