『新・人間革命』第20巻 信義の絆の章 297P~

<信義の絆の章 開始>


ソ連訪問から帰国して、二か月ほど過ぎた1974年(昭和49年)の11月中旬のことであった。中日中国大使館を通して、北京大学から、伸一を招待したいという電報が届いたのである。

二度目となる伸一の中国訪問は、1974年の12月2日からであった。今回、伸一は、日本から飛行機で、直接、中国に入ることになる。半年前の初訪中の折には、日本から中国に行く飛行機便はなかった。しかし9月末、日中定期航空路が開設されたのだ。

伸一は、そこに時代の変化を感じていた。6年前に、彼が「日中国交正常化提言」を行った時、いったい誰が、こうした時代の到来を想像したであろうか。時代は動く、時代は変わる。そこには、まず人間の心を動かすことだ。人が変われば、間違いなく歴史も変わるのだ。北京大学の首脳は、五千冊の図書贈呈を心から喜ぶとともに、贈呈式のために山本伸一が訪中したことに、深く感謝の意を表した。

そして、刷り上がったばかりの自著『中国の人間革命』を、北京大学の首脳に贈った。これは、第一次訪中の印象をつづったもので、発行日は三日後の12月5日であった。しかし、今回の訪中で関係者に贈呈しようと、持参してきたのである。

廖会長と伸一は、互いに抱き合い、半年ぶりの再会を喜び合った。廖承志は、感慨深い顔で頷いた。「今回は武漢大学にも図書贈呈されるという話も、駐日大使から伺っております」

「武漢大学の場合は、一人の創価大学生が、私と同じ心で日中友好の道を開こうと、懸命に奮闘し、交流の道を開いてくれました。私は、その努力に報いたいんです」伸一は、武漢大学に図書贈呈をすることになった経緯を語り始めた。

創価大学の一期生に、倉田城信という学生がいた。倉田は、伸一の『日中国交正常化提言』に触発され、創価大学に中国研究会を発足させた。学生訪中団に参加。この訪問で、武漢大学を訪れた折、同大学の日本語教師である呉月娥と知り合う。

在日華僑の叔父の看病のため来日していた彼女を、創価大学に来賓として招待した。この時、創価大学と武漢大学に対しても、図書贈呈を行うことを構想していった。伸一は、この経緯を廖承志に語った。二人だけになると、伸一は言葉を選ぶように語り始めた。

ソ連を訪問し、コスイギン首相と会談した折の首相の話を 廖先生の方から、中国の首脳に伝えていただければと話した。

北京到着の二日の夜には、北京大学の主催で、一行の歓迎宴が行われた。中国の関係者は伸一が、中国の素顔を日本のみならず、世界中に伝えようと既に中国訪問中から、依頼を受けていた新聞や雑誌の原稿執筆に取り組んできた。そして、帰国後も、睡眠時間を削って、ペンを執ってきた言論活動に、中国の関係者は着目し、高く評価していた。

伸一がスピーチに立った。平和は、人類の悲願である。本来、それを実現していくことこそ、最高学府の最も重要な使命であるはずだ。たとえ、どんなに優秀であっても、世界の民衆が戦争や飢餓、貧困、差別などに苦しんでいることに無関心で、痛みさえも感じない、冷酷なエリートしか輩出できないならば、それは既に教育の破綻である。ゆえに、人間教育が一切の根本となるのだ。

伸一は、平和など、至高の目的のために、すべての大学、学生が結ばれていくべきであると確信していた。彼が提唱した「教育国連」構想も、国やイデオロギーの壁を超えた、世界の平和を創造する学生のスクラムをめざすものでもあった。

12月3日、山本伸一の一行は、北京大学のロシア語館で行われた図書贈呈式に出席した。これには、北京大学の首脳、学生、また、中日友好協会の廖承志会長をはじめ、国務院、北京市の関係者ら百人ほどの人びとが参加した。


太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋