『新・人間革命』第20巻 友誼の章 76P~

教育こそ、社会の発展の根本である。大学を見れば、その国、その社会の未来がわかる。頤和園を後にした山本伸一は、中国の次代を担う若者たちとの出会いに胸を躍らせながら、北京大学へ向かった。

伸一は、日中の文化交流と相互理解を図るために、日本語の書籍など図書5千冊を北京大学に寄贈したいと述べ、その目録を手渡した。北京大学からは、写真集「中国工芸美術」などが返礼として贈られた。

伸一は写真集に、記念の言葉を書いてほしいと話す。一冊の本、一枚の色紙に記された言葉が、後世の大切な宝となることもある。伸一は、はるかな未来を見つめながら、一瞬一瞬、手を打っていたのだ。

当時の北京大学には、学校が経営する7つの工場があった。工場は学生、教師、労働者による「自力更生」をスローガンとして、建設されたという。

学生が工場で労働に携わるのは、大学に学んだ青年が、大衆から遊離し、"精神的貴族"のようにならないための教育でもあった。

大切なことは、本来、大学は民衆を守るためのものであり、民衆に奉仕し、貢献するために大学で学ぶという原点を常に確認していくことではないだろうか。

この日の出会いから、北京大学と創価大学の交流が始まったといってよい。後に、両大学は交流協定を結び、多くの教員や学生が行き来することになる。それは、創立者自らが架けた、教育交流の金の橋であった。伸一の北京大学での講演も三度に及んでいる。また、中国で初めて、伸一に名誉教授の称号を贈ったのは、北京大学であった。

伸一たちは、中日友好協会の金蘇城理事らの案内で万里の長城を歩いた。金理事の大きな声が響いた。「山本先生は、勇気をもって、日中国交正常化を提言され、さらに、日中平和悠子条約の締結も主張されています。激しく批判されながらも、微動だにされませんでした。そこに、創価学会を貫く、精神の強さ、堅固な心を感じます」

翌朝、伸一たちは、天安門広場の南の繁華街である大柵欄街を訪れた。地下防空壕を視察するためである。案内されたのはデパートであった。一階の床を持ち上げると階段があり、下りると地下壕になっていた。そこは防空壕というより、地下街を思わせた。明るく清潔な空間が広がり、中には、食堂や会議室、電話室、指揮室、放送室などもある。地下道によって、全市の街区が結ばれているとのことであた。

大柵欄街には、普段は8万人、祝祭日には20万人の人で賑わうという。その人たちが、いざという時には、5,6分で地下壕に避難できるというのである。案内者は語った。「他国からミサイルが飛んでくるのを7分と想定して、十分に間に合う時間です」

付近の居住区の防空壕にも案内された。防空壕を掘る作業に当たったのは、主に婦人と年配者であり、平均年齢は50歳を超えていたという。案内者は、毅然とした口調で言葉をついだ。「私たちは、第一には戦争には反対です。しかし、第二に戦争を恐れません」

伸一は、中国の人たちの心中を考えると、胸が張り裂けそうな思いがした。そして、"中ソの不信の溝を、絶対に埋めねばならぬ"と、心に誓うのであった。

国際クラブで、北京で友好を結んだ人たちに対する答礼宴をもった。答礼宴を終えた山本伸一の一行は、北京の人民大会堂に向かった。利先念副総理との会見のためである。

副総理は、日本と中国の国交正常化に至る伸一たちの努力の足跡を確認するように述べたあと、こう語った。「山本先生は、大きな働きをされました。大変に価値あるものです」

「周総理も、山本先生と創価学会には、重大な関心を寄せておられます。本来なら総理が会って、ごあいさつすべきなのですが、総理は今、病気療養中です。総理は、『山本会長にお会いしたいけれども、今回はお会いできないので、くれぐれもよろしく伝えてほしい』と申しておりました」この時、周総理は、5日前に癌の手術をしたばかりであった。

総理は重い病をかかえながら、伸一の訪問に対して、こまやかな気遣いをしてくれた。食べ物の好みや、喫煙するかどうかなども、人を介して尋ねた。伸一が少しでも安眠できるようにと、宿舎のカーテンを遮光性の強いものに、わざわざ取り替えさせたりもしていたのである。

総理の真心が、痛いほど感じられてならなかったのである。

太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋