『新・人間革命』第20巻 友誼の章 50P~

6月1日伸一たちは、「児童節」の催しに招待を受けた。会場の北京市労働人民文化宮は、天安門の東側にあった。参加者は、合計5万人であるという。子どもたちは、各所で歌や踊り、さまざまな展示、ゲームなどを楽しんでいた。

伸一は、案内をしてくれた少女に「将来どんな仕事につきたいと思いますか」と尋ねると「人民が望むなら、どんな仕事でもします」と答えた。

人民に奉仕することの大切さを、徹底して教えてられているのだろう。この精神が子どもたちの共通の生き方として定着していくならば、他に類を見ない、すばらしい社会として発展を遂げていくに違いないと、伸一は思った。

新中国の成立から20数年にして、教育は普及し、衣食住は保障され、革命前と比べて生活は確かに向上したというのが、人びとの実感であるようだ。

午後3時からは、中日友好協会の代表と座談会が行われた。これには、協会の副会長の張香山をはじめ、秘書長の孫平化、理事の林麗うん、金蘇城、通訳として黄世明らが参加した。

中国側のメンバーは、世界の情勢を「天下動乱」という観点でとらえていた。その危険性の根本要因を中国側は、米ソの二超大国の対立にあると考えていた。また、日本に軍国主義が復活することを強く警戒していた。

伸一が、最も憂慮し、中国の意見を聞きたかった問題は、中ソ対立であった。中ソ国境では、一触即発の緊張がみなぎっていたのである。

1956年の2月、ソ連共産党の大会で、フルシチョフ第一書記が、資本主義との平和的共存という新路線を発表したのだ。さらに、3年前に他界した書記長のスターリンを批判し、その独裁や粛清を弾劾したのである。

ソ連のみならず、世界の共産党の指導者として、君臨し、権力を振るってきたスターリンが否定されるとともに、社会主義としての路線の転換が図られたのだ。このフルシチョフ発言に、社会主義諸国は揺れた。当時、"アメリカ帝国主義との対決"などを打ち出していた中国は、フルシチョフの急激な路線変更に不信感を強め、異を唱えた。中ソ間に亀裂が走った。

7月、ソ連は、中国に派遣していた千人を越える技術者の引き揚げや、物資などの供給停止を決めた。これによって、ソ連の援助に依存していた中国の経済政策は、根底から揺るがされることになったのである。

中国は、64年10月、核実験に成功する。さらに、66年には、文化大革命が始まる。するとソ連は、"文革"こそ毛沢東思想の誤りであるとして、猛烈な批判を開始したのだ。

1968年8月チェコ事件が起き、社会主義国のチェコスロバキアに、ソ連などの社会主義国が軍事介入して鎮圧したのだ。

中国はソ連に脅威を感じた。中国にも、いつ侵攻してくるかわからぬという危機感を抱いた。翌年、珍宝島や黒竜江の島で中ソの軍事衝突が発生。緊張はますます高まっていった。

その一方で中国は、これまで帝国主義と批判していたアメリカとの関係改善に取り組み、ソ連の軍事的脅威に対抗しようとする。

山本伸一は、核を保有する中ソが戦争となることを、最も恐れていた。この事態だけは、絶対に阻止しなければならないと考えていた。伸一は、張香山副会長に率直に尋ねた。「・・・ところで、中国は他国を攻めることはありませんか」

「私たちは、独立の尊さと、侵略の悲惨さを身に染みて感じております。したがって、中国が他国を侵略することは、絶対にありません」張副会長は断言した。伸一は、この回答の意味は大きいと感じた。

中国側は、この秋に、伸一がソ連を訪問することも知っている。その言葉は、伸一に託したソ連へのメッセージであったのかもしれない。しかし、伸一は、政治的な思惑や意図などを探ろうとは思わなかった。彼は、張副会長の発言をそのまま受け入れ、深く心にとどめた。

ともかく、中国は侵略の意思がないことを言明したのだ。それならば、中ソの戦争の回避は、決して不可能ではない。伸一は、その言葉に喜びを覚えた。


7月28日付 聖教新聞3面に 歴史の目撃者である 黄世明氏との対話録が載っている。

太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋