『新・人間革命』第20巻 友誼の章 7P~

新・人間革命 第20巻 開始
< 友誼の章 開始 >

新しい時代の扉は、待っていては開きはしない。自らの手で、自らの果敢な行動で、勇気をもって開け放つのだ!

1974年(昭和49年)5月30日、午前10時半、伸一を団長とする創価学会第一次訪中団は、中華人民共和国を訪問するため、イギリス領・香港の九竜を列車で出発した。1時間ほどで香港最後の駅となる羅湖に着き、ここで通関手続きを済ませた。羅湖駅から百メートルほど歩き、中国の深圳駅に入るのである。まだ、日本から中国への直行便はなかった。

伸一は、先人たちの言葉を遺言として受け止めた。そして、日中友好の「金の橋」を架けることを、自らの使命と定めてきたのである。大願は、一代では成就できない。弟子が師の心を受け継いで立ち上がり、実現していくのだ。そこにこそ、弟子の使命があり、師弟の大願成就がある。

伸一は、時を待った。そして、1964年11月公明党の結党に際して、彼はこう提案した。「外交政策をつくるにあたっては、中華人民共和国を正式承認し、中国との国交回復に真剣に努めてもらいたい」

さらに、その4年後、第11回学生部総会で、あの歴史的な「日中国交正常化提言」を行ったのである。当時、国際世論は中国に批判の声を高めていた時である。そのなかで、中国との国交正常化や中国の国連での地位の回復を訴えるには、非難の集中砲火を浴びることを、覚悟しなければならなかった。

日本が率先して中国との友好関係を樹立することは、アジアのなかにある東西の対立を緩和することになるにちがいない。そして、それは、やがては東西対立そのものを解消するに至ることを確信して、伸一は「日中国交正常化提言」を行ったのである。

伸一のこの提言は、朝日、読売、毎日をはじめ、新聞各紙に報道され、さらに、中国にも打電されたのである。提言の反響は極めて大きかった。政治家の松村謙三は、「百万の味方を得た」と語った。

だが、その一方で、伸一は、激しい非難の嵐にもさらされたのである。嫌がらせの脅迫電話や手紙、街宣車を繰り出しての攻撃もあった。なぜ宗教者が、"赤いネクタイ"をするのか、との批判もあった。

外務省の高官も、強い不満の意を表明した。しかし、伸一は、決して恐れなかった。命を捨てる覚悟なくしては、平和のための、本当の戦いなど起こせないからだ。彼は、恐れるどころか、むしろ、勇んで日中の関係改善のために、第二、第三の言論の矢を放った。

学術誌『アジア』の12月号には、「日中正常化への提言」と題する論文を発表した。翌年6月には、日中国交正常化をもう一歩進め、「日中平和友好条約」を万難を排して結ぶべきであると訴えたのである。寄せ返す波が、巌を削るように、間断なき闘争が、不可能の障壁を打ち崩していくのだ。

日中関係の改善を訴える山本伸一の主張と行動を、創価学会を、中国の周恩来総理は、じっと見続けていた。周総理は以前から、伸一と創価学会に強い関心を寄せ、学会の調査研究を進めるとともに、学会との間に交流のパイプをつくるよう、関係者に指示していたのである。

作家の有吉佐和子や、日中間のパイプ役というべき松村謙三も盛んに訪中を進めた。伸一は、まだ、訪中は時期尚早であると感じ、丁重に辞退したのである。

公明党の訪中が実現したのは、1971年6月のことである。公明党の訪中団に周総理は、冒頭「どうか、山本会長にくれぐれもよろしくお伝えください」と丁重に語った。

この折、公明党は、日中国交正常化を実現するための基本的な条件を、中日友好協会代表団との共同声明として発表した。この共同声明は、「復交五原則」と呼ばれ、その後の政府間交渉の道標となったのである。伸一が命がけで訴えてきた「日中国交正常化」に向かって、時代の歯車は回り始めたのである。


太字は 『新・人間革命』第20巻より 抜粋