『新・人間革命』第19巻 陽光の章 215P~

伸一は、一人の人間に語りかけるかのように、講演を始めた。まず彼はイギリスの歴史学者トインビー博士との対談の概要を語っていった。そして、博士が、警鐘を鳴らしていたことを紹介した。

「私は、来るべき21世紀は、結論していうならば、生命というものの本源に、光があてられる世紀であると思っております。そうあらねばならないと信じています。そうあってこそ、真実の意味でテクノロジーの文明から、ヒューマニティーの文明へと発展するであろうと思うからであります。」

山本伸一は、仏法という生命哲理の上から、現代文明のひずみの根源を明らかにしようとしていたのである。ここで彼は、仏法では人生を、生老病死など苦しみの集積であると説いていることを語り、「なぜ、人は人生に苦しみを感ずるのか」を論じていった。

それは、万物万象は「無常」であるにもかかわらず、「常住不変」であると思い、そこに執着し、煩悩のとりこになっているからであると、仏法では説いている。現代文明も、この「無常」なるものへの執着、煩悩の充足をバネに発展してきた。

その結果、人類は便利さや快適さなどを手にしたものの、環境破壊や核戦争の脅威に怯え、滅亡の淵に自らを追い込んできたといえよう。

真実の仏法は、煩悩や執着の働きを生み出す生命の奥に、また、無常の現実の奥に、それらを統合、律動させている常住不変の方があると説いているのである。

煩悩に責められているというのは、自己自身の小さな我、すなわち「小我」にとらわれている状態である。普遍的真理を悟り、そのうえに立って、無常の現象を包み込んでいく生き方、つまり「大我」に生きることを教えている。この「大我」とは、生命のさまざまな動きを発現させていく宇宙の根源的な力であり、「法」である。

「大我」に生きるというこ、とは、「小我」をコントロールし、人間の幸福のために生かすことであると述べた。次いで、生死の問題を掘り下げながら、「大我」について論じていった。「仏法では、『生死不二』と説きます。生も死も、永久不変に流れゆく生命の二つの現れ方であって、どちらかに他方が従属するものではない。」

「人間は生まれてから、肉体も、精神も大きな変化を遂げている。しかし、そのなかにも一貫して変わらざる自己というものがある。仏法は、その本質的な『我』が宇宙大の生命、すなわち『大我』に通じていると説きます。」

いかなる死生観をもつかが、人間の生き方を、さらには文明の在り方を決定づける。伸一は、「小我」に支配されてきた文明から、無常の奥にある常住の実在、すなわち「大我」に立ち、宇宙生命と共に呼吸しながら生きる文明への転換を訴えたのだ。

「21世紀は、人間が生命に眼を向ける『生命の世紀』としなければなりません。新世紀が、夢に見た人間謳歌の文明になるかどうかは、常住不変、不動の力強い不変の生命を発見しうるかどうかにかかっているのであります」

最後に 一人ひとりが、「人間自立の道」を考えていただきたい」と話しを結んだ。

1時間15分に及ぶ講演が終わると、講堂を埋めた聴衆は、頬を紅潮させ、総立ちになった。雷鳴のような拍手が轟いた。

講演を聴いた多くの人が、その着眼に、新鮮な感動を覚えたようだ。なかには、初めて接する東洋の英知に、仏法思想に、驚嘆し、しばし呆然とする教授もいた。聴衆が、伸一に握手を求めて殺到した。あいさつに立ったミラー副総長は、叫ぶように語った。「本日、会長は、われわれに新鮮な勇気と感動を与える、歴史的なスピーチをしてくださいました!」

山本伸一にとって海外初の大学講演となる、UCLAでの講演は、大成功に終わった。



太字は 『新・人間革命』第19巻より 抜粋