『新・人間革命』第18巻 飛躍の章 346P~

1月27日、香港広布13周年を記念する撮影会が行われた。撮影の前後には、全精魂を注いでの、伸一の懸命な激励が続いた。撮影が終わると、歓迎の歌の披露に移った。中国語の歌に続いて、流暢な日本語で、「春が来た」の合唱が始まった。 

春が来たーーそれは、試練の嵐を乗り越え、10年ぶりに師と慕う伸一を迎えたメンバーの実感であった。苦しみの荒れ野を越えてきた人ほど、春の花園の美しさが心に染みるのだ。 

自由貿易港の香港は、自由な経済活動が保障されている反面、貧富の差も大きく、豊かさと貧しさが同居していた。メンバーは、経済苦をはじめ、病苦や家庭不和など、さまざまな悩みをかかえて入信し、一つ、また一つと、苦悩を克服してきた。そして、その歓喜を語り抜くなかで、弘教の大波が広がったのだ。香港広布もまた民衆の大歓喜から発したのである。歓喜を原動力とした平和革命が、我らの広宣流布なのだ。 

香港には船上生活をしている人もおり、船の上でも座談会が開かれていた。船からは題目や学会歌の歌声、楽しそうな笑い声が響いた。周囲の船の人たちは、そんなメンバーの船を、「仏船」と呼んでいた。 

また、メンバーのなかには、貧しさしさゆえに教育を受けることができず、読み書きができない人もいた。ある婦人は、なんと自分で「絵文字」を考え、経本を作って勤行を覚えたのだ。その人たちが、活動をし、信心に励んでいくなかで、懸命に字を覚え、機関紙の「黎明聖報」を読むようになり、教学部員にもなっていったのである。

"皆、さまざまな苦悩に挑みながら、広宣流布の使命を自覚し、人びとの幸福と平和のために献身してくれている。仏は彼方におわすのではない。この方々こそ地涌の菩薩であり、仏なのだ。ゆえに私は、同志に尽し抜き、命をかけて守り抜こう"伸一は、深く心に誓うのであった。

1月28日、香港広布13周年の記念の集いが香港会館で盛大に開催された。この日は、13年前、山本伸一が香港に第一歩を印した日である。彼は、10年後の1984年(昭和59年)を香港の第二期の目標とすることを提案し、三つの指針を示したのである。それは、そのまま、未来へと旅立つ友の固い決意となったのである。

その後の祝賀会では、伸一と峯子はメンバーが用意してくれた、中国服に着替えて庭に出た。二人はメンバーの真心に応えたかったのである。「春が来た」の調べを伸一はピアノで弾き皆で大合唱した。さらに未来部のメンバーと記念撮影を行った。

未来部のメンバーのなかには、親が字を書けないため、一緒に会合に行って指導や連絡事項などをノートに書いたりするなかで子どもたちは、信心の理解を深め、学会活動の意義や仏法のすばらしさを学び、吸収していったのである。

この時の未来部員の多くが、その後、大学に学び、社会のリーダーとなり、また、香港SGIの組織にあっても中核に育ち、広宣流布の大きな推進力となっている。 

1月29日、山本伸一は図書贈呈のために、香港市政局公立図書館を公式訪問した。寄贈する本は、4500冊である。
伸一たちを迎えてくれたのは、著名な女性社会教育者でもある、市政局図書館事務委員会のエリオット主席であった。語らいは弾んだ。

日本は、かつて香港を占領しただけに、人びとの反日感情も強い。その心の壁を超え、憎悪を友情に変えるには、人間と人間の相互理解を図るしかない。平和といってもそこから始まるのだ。彼は、富士美術館との交流も検討したいと語った。

その後、伸一は香港大学へ向かった。当時の香港では、大学の総長には香港総督が就いていたため、実務の最高責任者 副総長でもある黄麗松学長の正式招待を受けていたのである。伸一は、香港大学の洋の東西を超えた孫文と恩師のカントリー先生との師弟の絆に着目していた。


太字は 『新・人間革命』第18巻より 抜粋