『新・人間革命』第18巻 飛躍の章 319P~
人間にとって「志」が大切であることを強調していった。「社会は、本然の『人間としての志』をめざすことを忘れて、『物財』を追い求めることに傾斜していったといえます。『忘れる』の『忘』という字は『心』と『亡ぼす』から成り立っておりますが、志を忘れれば、精神は滅亡することを、この字は教えているように思えます。人間らしい志を失った社会は、無慈悲と教条主義と無知がまかり通る、殺伐した社会になってしまう」
伸一は、その精神を蘇生させる場こそ、座談会であり、座談会を青年部の力によって、生命触発の「人間広場」としていくことを期待していたのである。また、青年は正義に生きよと呼びかけた。
「信心の道を進む者は『正義感』を決して失ってはならない。信仰の世界にあっては、"濁"は呑んではならない。そこから必ず『正義感』を失い、結局は無気力な日陰の人物になってしまうからです」
さらに彼は「鍛え」の大切さを力説し、「鍛えがなければ、人生の土台は築けない。どんなに辛いことがあろうとも、唱題に励み、挫けることなく、自身を築き上げていくことが、『生死即涅槃』の法理に通じるのであります。」と訴えたのである。
それらの指導は、青年部の生き方の規範となる重要な指針となった。
福岡の県長である丸山善信が「ぜひ田川会館にお寄りください」と意を決したように口を開いた。
田川は、筑豊炭田最大の炭鉱都市であったが、炭鉱が閉山になり、皆、生活苦にあえいでいた。田川の一粒種の婦人が「田川の人たちは、どうしたら幸せになるでしょうか」と訴えていた。同志も職を失い、次々と都会へ移っていった。
青年部員はほとんどいなくなり、座談会を開いても、参加者はわずか5,6人になってしまった。婦人の質問に伸一は確信に満ちた声で答えた。「どんな事態に追い込まれようが、必ず活路を開いていけるのが信心です。負けてはいけない。そして、題目を唱え抜いて、同志を守ってください。頼みますよ」
田川のメンバーは、山本伸一への誓いを託して、愛唱歌「田川に春を」を作詞作曲し、いつかこの歌を山本先生に聴いていただくのだと、この歌を歌いながら、試練の坂道を越えてきた。田川のメンバーは、晴れの本部幹部会で、高らかに、誇らかに「田川に春を」を合唱した。それは、時代の波浪を乗り越えた、民衆の歓喜の凱歌であり、全同志の希望の歌声となったのである。
26日、香港へ出発する伸一。山本伸一の香港訪問は何紙かの地元紙にも報じられた。13年前、香港初訪問の折に、彼が宿泊したホテルで「歓迎の夕べ」に招待された。初訪問した時、メンバーは実質10世帯に満たなかった。
その時に結成した香港地区が、今や香港本部となり、8千世帯を超える同志が、喜々として信心に励んでいるのだ。まさに、千倍近い大飛躍を遂げたのである。伸一は、メンバーが語る、この10年間の歩みに耳を傾けていった。伸一は、大飛躍の原動力はどこにあったと思うかと尋ねた。
「みんなに、学会の指導の通りに実践して、功徳を受けたという喜びがあったことです。また、一部の人たちだけが頑張るのではなく、みんなが使命を自覚し、力を発揮していけることを目標にし、丹念に個人指導を行ってきました。特に新しく信心を始めた人を徹底して激励し、勤行と仏法対話ができるようになるまで応援しました。この人たちが拡大の力となったんです」
しかし、「行懈既に勤めぬれば三障・四魔・紛然として競い起こる」との法理道理、香港にも試練の嵐が吹き荒れたのである。70年、日本で「言論・出版問題」が起こり、創価学会が激しい攻撃にさられると、その影響は香港にも及んだ。学会は、反社会的な団体であるとする喧伝に、香港の一部のマスコミも同調したのである。
太字は 『新・人間革命』第18巻より 抜粋
人間にとって「志」が大切であることを強調していった。「社会は、本然の『人間としての志』をめざすことを忘れて、『物財』を追い求めることに傾斜していったといえます。『忘れる』の『忘』という字は『心』と『亡ぼす』から成り立っておりますが、志を忘れれば、精神は滅亡することを、この字は教えているように思えます。人間らしい志を失った社会は、無慈悲と教条主義と無知がまかり通る、殺伐した社会になってしまう」
伸一は、その精神を蘇生させる場こそ、座談会であり、座談会を青年部の力によって、生命触発の「人間広場」としていくことを期待していたのである。また、青年は正義に生きよと呼びかけた。
「信心の道を進む者は『正義感』を決して失ってはならない。信仰の世界にあっては、"濁"は呑んではならない。そこから必ず『正義感』を失い、結局は無気力な日陰の人物になってしまうからです」
さらに彼は「鍛え」の大切さを力説し、「鍛えがなければ、人生の土台は築けない。どんなに辛いことがあろうとも、唱題に励み、挫けることなく、自身を築き上げていくことが、『生死即涅槃』の法理に通じるのであります。」と訴えたのである。
それらの指導は、青年部の生き方の規範となる重要な指針となった。
福岡の県長である丸山善信が「ぜひ田川会館にお寄りください」と意を決したように口を開いた。
田川は、筑豊炭田最大の炭鉱都市であったが、炭鉱が閉山になり、皆、生活苦にあえいでいた。田川の一粒種の婦人が「田川の人たちは、どうしたら幸せになるでしょうか」と訴えていた。同志も職を失い、次々と都会へ移っていった。
青年部員はほとんどいなくなり、座談会を開いても、参加者はわずか5,6人になってしまった。婦人の質問に伸一は確信に満ちた声で答えた。「どんな事態に追い込まれようが、必ず活路を開いていけるのが信心です。負けてはいけない。そして、題目を唱え抜いて、同志を守ってください。頼みますよ」
田川のメンバーは、山本伸一への誓いを託して、愛唱歌「田川に春を」を作詞作曲し、いつかこの歌を山本先生に聴いていただくのだと、この歌を歌いながら、試練の坂道を越えてきた。田川のメンバーは、晴れの本部幹部会で、高らかに、誇らかに「田川に春を」を合唱した。それは、時代の波浪を乗り越えた、民衆の歓喜の凱歌であり、全同志の希望の歌声となったのである。
26日、香港へ出発する伸一。山本伸一の香港訪問は何紙かの地元紙にも報じられた。13年前、香港初訪問の折に、彼が宿泊したホテルで「歓迎の夕べ」に招待された。初訪問した時、メンバーは実質10世帯に満たなかった。
その時に結成した香港地区が、今や香港本部となり、8千世帯を超える同志が、喜々として信心に励んでいるのだ。まさに、千倍近い大飛躍を遂げたのである。伸一は、メンバーが語る、この10年間の歩みに耳を傾けていった。伸一は、大飛躍の原動力はどこにあったと思うかと尋ねた。
「みんなに、学会の指導の通りに実践して、功徳を受けたという喜びがあったことです。また、一部の人たちだけが頑張るのではなく、みんなが使命を自覚し、力を発揮していけることを目標にし、丹念に個人指導を行ってきました。特に新しく信心を始めた人を徹底して激励し、勤行と仏法対話ができるようになるまで応援しました。この人たちが拡大の力となったんです」
しかし、「行懈既に勤めぬれば三障・四魔・紛然として競い起こる」との法理道理、香港にも試練の嵐が吹き荒れたのである。70年、日本で「言論・出版問題」が起こり、創価学会が激しい攻撃にさられると、その影響は香港にも及んだ。学会は、反社会的な団体であるとする喧伝に、香港の一部のマスコミも同調したのである。
太字は 『新・人間革命』第18巻より 抜粋