『新・人間革命』第18巻 前進の章 275P~ 

伸一の指導を聞いていた壮年の副本部長坂田益男は、25歳の時、南妙法蓮華教とは何か知りたくて入会した。入会から1年後、九死に一生を得る大事故に遭う。同志が必死に唱題してくれていて1週間後意識が戻るが、6か月の入院と後遺症が出ると医師からいわれてしまう。

病室で、懸命に題目を唱え、2か月半で退院し、医師から「見立て違い」と言われるほどだったが、会社を辞めざるをえなかった。彼は、闘志がわき、自分で事務所を借り仕事を始める。医師からは絶対、夜更かししないようにと言われていたが、笑顔を絶やさず、営業に歩いた。

彼の祈りの根本は、常に広宣流布であった。"仏法の力を証明するために、仕事に勝たせてください!"と祈った。また、顧客が繁栄し、幸せになれるようにと、題目を送り、依頼のあった仕事は、難しい注文もすべて引き受けた。彼のそうした姿勢は、次第に、顧客から高く評価されていった。

時代も技術も、変化、変化の連続である。変化を恐れ、新しき挑戦を忘れれば、人も、会社も滅びてしまう。

坂田が最も心していたのは、いかに自分を律するかであった。自営業というのは、ともすれば、金銭の管理も杜撰になり、つい自分を甘やかしてしまいがちである。事業の行き詰まりの背景には、その甘さが必ずあるものだ。

"仕事で実証を示し、広々とした立派な個人会館をつくりたい"彼は、そう念願しながら、仕事に、活動に励んでいったのである。事業の成功も、根本はどこまでも、信心である。坂田はその事を痛感していた。後に、彼は4階建てのビルを購入し、二階を個人会場としている。30数畳の立派な会場である。

「不況に負けるな!今こそ信心で勝て!」
壮年のあるブロック長は、仕事が激減し、アルバイトをして生計を立てながらも、青年たちに味噌汁やおにぎりなどを用意しておいた。

"変毒為薬の信心だ。このピンチを飛躍のチャンスに変えよう!"それが同志たちの決意でもあった。同志の、何があっても挫けぬ生命力の強さは、信仰から発する智慧は、人を思いやる慈悲の心は、社会にあって燦然と光輝くにちがいない。

1973年12月16日、東京以外の地で初めて、大阪で本部総会が開催された。伸一は、この本部総会の講演で、未来を展望し、高らかに宣言した。「明1974年(昭和49年)を『社会の年』と決めましたが・・・すなわち『社会の年』は、人間こそ原点であるという方向性を、社会に打ち立てる年といえるのであります」

この混乱は、経済の繁栄のみ心を向け、他の一切を切り捨ててきたことにあると、その要因に迫り、「今こそ日本は、"人間とは何か""人間いかに生きるべきか""世界の人びとに対して日本は何をなしうるか"といった基本的な問題から問い直して、進むべき道を切り開いていかなければならない」


さらに、日本をかくも混迷させ、エゴの衝突の坩堝と化した社会をつくり上げてしまった元凶は、生命の一念の狂いにあることを指摘。指導者をはじめ、人間一人ひとりの一念の転換の必要性を、声を大にして訴えたのである。


人間自身の一念を変革せずしては、時代の建設はない。生命の魔性を断ずる、仏法による人間革命なくしては、社会の繁栄はありえないのだ。


使命を自覚した同志は燃えていた。
"今こそ、不況に負けない努力を重ね、見事な信心の実証を示そう!"

広宣流布の使命に生きるならば、わが心は洋々と開かれ、胸中に歓喜の太陽が昇る。

この本部総会で伸一は、世界広布の新たな展開にも言及した。5月に「ヨーロッパ会議」が、8月には「パン・アメリカン連盟」が、12月に「東南アジア仏教者文化会議」が結成されたことを伝えた。そして、「国際センター」の設置を発表したのである。

「いよいよ舞台は世界です。私も戦います」伸一の心は、戦争、経済の混乱等々、世界を覆う暗雲を見すえていた。彼は、英知の翼を広げ、平和の大空に飛翔する瞬間を、満を持して待っていたのである。

<前進の章 終了>


太字は 『新・人間革命』第18巻より 抜粋