『新・人間革命』第18巻 師恩の章 136P~

1960年5月3日、山本伸一は第三代会長に就任すると、8月、厚田村を訪問した。「このたび戸田先生の弟子として、第三代会長になりました。山本です。今日は先生の故郷に、会長就任のご報告にまいりました」皆、そこに弟子の生き方を見た思いがした。

「戸田先生の故郷の厚田は、私の第二の故郷です。どうか、皆さんで力を合わせて、私に代わって、ここに幸福の花園を築いてください」厚田の同志は、この言葉から、師匠の故郷を理想の広布の天地にするとともに、厚田村を断固として繁栄させたいという、伸一の強い、強い、思いを感じとった。

「私たちは、山本先生から、厚田の広宣流布を託されたのだ。山本先生に代わって、戸田先生の故郷を守り抜こう」厚田の同志は、固く誓い合うのであった。厚田村は、次第に漁業も衰退し、人口も減少の一途をたどっていた。そのなかで同志は、郷土の繁栄を祈りながら、意気揚々と広宣流布に走った。

仏法対話は、千世帯ほどの村のほぼ全世帯に及んだ。いや厚田にとどまらず、石狩、札幌、小樽にも拡大の波を広げていった。

「たゆまず、休みなき努力によってこそ、『信念』は、『豊かで揺るぎなき体験』にかわるのです」とは、マハトマ・ガンジーの箴言である。その「豊かで揺るぎなき体験」が、メンバーの仏法への確信を、ますます強く深いものにした。


小樽での会合には、3時間ほどかかり、着いたころには会合はおわりかけ、15分ほどすると帰らなければならない。励ましの声と大拍手に送られて、会場をあとにするのであった。この精神の連帯が、学会の世界なのである。厚田のメンバーは、短時間しか参加できないからこそ、真剣勝負であった。学会指導を、一言も聴き漏らすまいと、必死になって吸収していった。

厚田のメンバーは、地域に根を深く掘り、村の繁栄のために、一心に奮闘していった。真剣に地域に貢献する学会員の姿は、村の希望となっていった。山本伸一も、恩師の故郷を守ろうと、小・中学校への図書贈呈や、健康相談のための医師らの派遣などを懸命に邁進してきた。この伸一の思いを知った厚田の人びとは、さらに、学会を深く理解し、その指導者である戸田城聖を輩出したことに、強い誇りをいだくようになっていった。そして、伸一を招いて「村民の集い」が開かれるに至ったのある。

伸一に、「厚田は勝ちましたね」と声をかけられた山内悦郎は、「皆が、"山本先生が見ていてくださる。先生ならどうされるか"と真剣に考えながら、心を合わせて頑張りました」とこたえた。

心に師をもって戦う人は強い。広宣流布に敢然と突き進む大会のごとき師の心をわが心とする時、弟子もまた師の大境涯に連なり、無限の力がわくのだ。


図書贈呈は、これまでに何度か行われてきたが、その契機となったのは、1954年8月に、戸田が初めて伸一を伴って、厚田村を訪問した折、小・中学校の校長らと懇談した折、本が足りなくて困っていることを聞き、寄贈を約束したのだった。

伸一は、図書寄贈に対する児童のお礼のあいさつにこたえて、自作の詩「厚田村」を朗読した。朗読は関係者からの強い要請でもあった。

かつてはニシン漁で賑わいを見せた厚田村も、今では人口が減少し、村の前途は決して安泰とはいえなかった。しかし、厚田村の美しさをうたい、戸田城聖を育んだこの天地のもつ深い意義を明らかにした詩は、村民の誇りを呼び覚まし、郷土建設への勇気と希望をわき起こしていったのである。

この日のあいさつで伸一が語った、映画「人間革命」と、「村民の集い」を収めた記録映画「人間共和のふるさと厚田村」は、訪問から約1か月後に、厚田村で上映されることになるのである。


太字は 『新・人間革命』第18巻より 抜粋

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