『新・人間革命』第17巻 緑野の章 382P~
6月10日には、群馬県を訪問した。群馬は、どちらかといえば、組織的に光が当たる機会が少なかった。「広布第二章」とは、各県がそれぞれの特色を生かしながら、独自の広宣流布の歩みを開始していく時代である。それだけに、細部に手を入れることができなかった地域に足を運び、共に広宣流布の構想を練り、人材を育成し、新しい令法久住の地平を開こうと、伸一は心に決めていたのだ。
群馬県内で6千人もの人が集ってスポーツ大会や記念撮影が行える適当な会場はなかなか見つからなかった。かなり昔に捏造され、流された昔話を真に受けているのであった。
「これは、学会への誤解を打ち砕き、認識を新たにさせるチャンスだ!」群馬の中心幹部たちはそう決意し、祈り、動き、学会の真実を語り抜いていった。そして、町立のスケートセンターに決まった。
シーズンオフのスケート場は、汚れ、駐車場や道もデコボコで、危険でさえあった。町長らと話し合い、自分たちの手で会場の補修整備を行うことになり、多くの同志がかけつけ、割れた窓ガラスを取り換え、壁や床を磨き、道路や駐車場をきれいにならしていった。
もっとも気がかりだった変わりやすい当日の天気に、群馬は唱題の渦が巻き起こった。当日はみごとな晴天であった。
伸一は、撮影のたびごとに、メンバーを全力で指導していった。"今しかない。この一瞬を無駄にすれば、大事な時を逃してしまう"伸一は懸命であった。
さらに、群馬県が誇る群馬交響楽団の学会員とも懇談した。戦後間もなく、楽団を創設した中心者の胸には、音楽をもって日本の復興を図ろうとの、強い思いがあった。しかし、10万都市では、財政難に陥り、仕事もなく、食費を確保することさえままならなかった。それでも、「移動音楽教室」は粘り強く続けられた。解散の話も出て、毎日が背水の陣であった。
やがて、この楽団をモデルにした映画が製作され、大ヒットする。伸一も青年時代にこの映画を見て、感動した。映画の中の中心者の話が忘れられなかった。評価された原因は何かと問われ、「何年間もただ同じことを繰り返していたにすぎないんです。」と。
もがきながらも、自分の壁を破っていく。勝利とは、その積み重ねのなかに打ち立てられるものだ。
群馬交響楽団に10人ほどの学会員がいた。
群馬県の音楽隊の責任者を務めた小田敬義は、「音楽は人間と人間の心を結ぶ、世界の共通語です。人間主義の哲学を根本に、平和の心を、歓喜の共鳴音を広げていってください」との言葉に、自分の音楽の原点を再確認された思いがした。
小田は、将来ホルンの演奏家になりたかったが、家の家業を継がなければならず、悶々としていた時、創価学会の会合に誘われ、「願いは叶う」との確信ある言葉に入会。両親を説得し、音楽の道に進むことを決意し、大学を卒業後、群響の団員となった。
「あらゆる人に最高の音楽を伝えることが大事です。その民衆とともに音楽はあるべきです。私は"群響"がそういう視点を持っていることがすごいと思います」この言葉に、群響のコンサートマスターを務める宮坂は目を潤ませた。
彼は、まさにそのために、一年前、東京の日本屈指のオーケストラから群響に移ったのである。宮坂は
、実力を高く評価されるバイオリン奏者であった。"音楽といっても、それは人間性の発露だ。その人間性は、いかにすれば培えるのか‘'との疑問に近所の人から聞いた生命論に共感し、30歳で信心を始めた。
東京文化祭で、500人近くの青年にバイオリンの指導をした。青年たちは技術的には、未熟であったが、人類の幸福と平和を実現しようと、広宣流布の使命に燃え、その情熱をバイオリンにぶつけた。宮坂は、感動と興奮に震えた。仏法への確信は、次第に強まっていった。
さらに、社会のあらゆる人びとにすばらしい音楽を聴かせたい。聴衆との心の交流が図れる音楽活動をしたいと渇望するようになり、群響に入ることを決断した。
太字は 『新・人間革命』第17巻より 抜粋
6月10日には、群馬県を訪問した。群馬は、どちらかといえば、組織的に光が当たる機会が少なかった。「広布第二章」とは、各県がそれぞれの特色を生かしながら、独自の広宣流布の歩みを開始していく時代である。それだけに、細部に手を入れることができなかった地域に足を運び、共に広宣流布の構想を練り、人材を育成し、新しい令法久住の地平を開こうと、伸一は心に決めていたのだ。
群馬県内で6千人もの人が集ってスポーツ大会や記念撮影が行える適当な会場はなかなか見つからなかった。かなり昔に捏造され、流された昔話を真に受けているのであった。
「これは、学会への誤解を打ち砕き、認識を新たにさせるチャンスだ!」群馬の中心幹部たちはそう決意し、祈り、動き、学会の真実を語り抜いていった。そして、町立のスケートセンターに決まった。
シーズンオフのスケート場は、汚れ、駐車場や道もデコボコで、危険でさえあった。町長らと話し合い、自分たちの手で会場の補修整備を行うことになり、多くの同志がかけつけ、割れた窓ガラスを取り換え、壁や床を磨き、道路や駐車場をきれいにならしていった。
もっとも気がかりだった変わりやすい当日の天気に、群馬は唱題の渦が巻き起こった。当日はみごとな晴天であった。
伸一は、撮影のたびごとに、メンバーを全力で指導していった。"今しかない。この一瞬を無駄にすれば、大事な時を逃してしまう"伸一は懸命であった。
さらに、群馬県が誇る群馬交響楽団の学会員とも懇談した。戦後間もなく、楽団を創設した中心者の胸には、音楽をもって日本の復興を図ろうとの、強い思いがあった。しかし、10万都市では、財政難に陥り、仕事もなく、食費を確保することさえままならなかった。それでも、「移動音楽教室」は粘り強く続けられた。解散の話も出て、毎日が背水の陣であった。
やがて、この楽団をモデルにした映画が製作され、大ヒットする。伸一も青年時代にこの映画を見て、感動した。映画の中の中心者の話が忘れられなかった。評価された原因は何かと問われ、「何年間もただ同じことを繰り返していたにすぎないんです。」と。
もがきながらも、自分の壁を破っていく。勝利とは、その積み重ねのなかに打ち立てられるものだ。
群馬交響楽団に10人ほどの学会員がいた。
群馬県の音楽隊の責任者を務めた小田敬義は、「音楽は人間と人間の心を結ぶ、世界の共通語です。人間主義の哲学を根本に、平和の心を、歓喜の共鳴音を広げていってください」との言葉に、自分の音楽の原点を再確認された思いがした。
小田は、将来ホルンの演奏家になりたかったが、家の家業を継がなければならず、悶々としていた時、創価学会の会合に誘われ、「願いは叶う」との確信ある言葉に入会。両親を説得し、音楽の道に進むことを決意し、大学を卒業後、群響の団員となった。
「あらゆる人に最高の音楽を伝えることが大事です。その民衆とともに音楽はあるべきです。私は"群響"がそういう視点を持っていることがすごいと思います」この言葉に、群響のコンサートマスターを務める宮坂は目を潤ませた。
彼は、まさにそのために、一年前、東京の日本屈指のオーケストラから群響に移ったのである。宮坂は
、実力を高く評価されるバイオリン奏者であった。"音楽といっても、それは人間性の発露だ。その人間性は、いかにすれば培えるのか‘'との疑問に近所の人から聞いた生命論に共感し、30歳で信心を始めた。
東京文化祭で、500人近くの青年にバイオリンの指導をした。青年たちは技術的には、未熟であったが、人類の幸福と平和を実現しようと、広宣流布の使命に燃え、その情熱をバイオリンにぶつけた。宮坂は、感動と興奮に震えた。仏法への確信は、次第に強まっていった。
さらに、社会のあらゆる人びとにすばらしい音楽を聴かせたい。聴衆との心の交流が図れる音楽活動をしたいと渇望するようになり、群響に入ることを決断した。
太字は 『新・人間革命』第17巻より 抜粋