『新・人間革命』第17巻 緑野の章 369P~ 

戦国武将たちの戦いは、憂国の情熱の半面、野心、名聞名利によるものであったことを述べ、それに対して、創価の広宣流布運動は、慈悲から発する、平和への大闘争であることを訴えた。

また、ますます社会は生命軽視の風潮に流されつつあることを指摘し、こう力説した。

「生命の法理に暗ければ、いかに学校教育が普及し、また、学問の理論水準が高まろうとも、生命軽視の風潮を根絶することはできない。そこに、仏法の深遠なる生命哲理に着目せざるをえない理由があります。信心とは、結局のところ、この『生命の内なる法則の確認』をすることにほかなりません。」

「私どもは、色心不二の大生命哲学を掲げ、生命軽視という恐るべき現代の風潮に、勇気凛々と、真っ向から挑んでいこうではありませんか」

伸一は、最後に、「崇峻天皇御書」を拝した。「『人身は受けがたし爪の上の土・人身は持ちがたし草の上の露、百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ』

「人間として生まれてくることは難しく、また、人間として生まれてきても、人の一生は草の上の露のように、はかなく短いものである。その尊い一生を、いかに生きるかについて、大聖人は明確に結論されている。」

「たとえ、百二十歳まで長生きして、汚名を残して一生を終わるよりも、生きて一日でも名をあげることこそ、大切である。では、『名をあげる』とはどういうことか。」

「仕事・職場の第一人者、勝利者になることです。広宣流布の闘将となって、常勝の旗を打ち立てていくことです。そして、地域・社会での人びとの信頼といえます」

「仏法即社会です。ゆえに信心の勝利は、社会での勝利とならねばなりません。社会での戦いで断固、勝つことです。どうか皆さんは、人生のあらゆる局面で誠実を尽し、智慧を尽くし、努力し抜いて、周囲から『よかりけり・よかりけり』と称賛される勝利者になってください。その実証こそが、創価学会の正義と真実の証明になるんです。」

伸一は、岐阜本部へ向かうと聖教新聞の岐阜支局の編集室へ入り、作業に励むメンバーを激励した。忙しくて、十分睡眠をとるなんて無理だと言いたげな青年に、「どうやって睡眠をとるか。それには、一瞬一瞬、自分を完全燃焼させ、効率的にやるべきことを成し遂げていくことです。」と言った。

「『臨終只今』の思いで、素早く、全力投球で事に当たっていくんです。その原動力となるのが真剣な唱題です。特に朝が勝負だ。生命力が強くなれば、価値創造の活力も生まれ、能率を上げる智慧もわくからね。食生活に注意を払い、ラジオ体操など、持続的に運動していくことも必要です。」

「仏法は道理です。自己を律してこそ、仏法なんです。」健康に対する彼のアドバイスは、自身の体験に基づくものであった。

編集部のメンバーに、俳句をつくろうと話す。「俳句のリズムは、新聞の見出しにも通ずる。また、句や歌で、人を励まし、勇気づけることもできる。広宣流布は言論戦なんだから、青年は言論の力をつけなくてはならない。そのためには、句や歌で、的確に心を表現する力も必要です」

支局長で県男子部長の久山忠夫を見て言った。「青年部は、言論の勇者になり、民衆を足蹴にするような権力者や裏切り者とは、徹底して戦うんだよ。青年が悪を見破り、打ち破っていかなければ、健気な同志が、民衆がかわいそうです」

「悪は放置しておけば、必ず増長し、蔓延する。慈悲ゆえに、民衆の幸福を願うがゆえに、正義の声を放っていくんです。成長の原動力は、自分が一切の責任を担おうと決めることだ。主体者となることだ。それが師弟ということだよ」

広宣流布の建設とは、広布の使命に生き抜く、不屈の人間を育むことである。それには、一人ひとりの心田に決意の種子を植えることだ。


太字は 『新・人間革命』第17巻より 抜粋

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