『新・人間革命』第16巻 羽ばたきの章 P331~ 

10月16日は、「久遠の灯」の点火大法要が行われた。正本堂の中央ブリッジ前に設置された「久遠の灯」の灯火台に火をともす儀式である。

翌17日は、慶祝法要最後の日であり、正本堂記念品埋納大法要が営まれた。須弥壇下の埋納室に、さまざまな記念品を納める儀式である。

伸一は、その説明をしたあと、彼方を仰ぐように顔を上げると、力強い声で語った。「この部屋は、猊下の御認可を得まして、第一回は今日より700年後、第二回は三千年後、そして第三回は1万年後に開かれることになっております」気の遠くなるような、想像もつかない未来である。しかし、皆、壮大なロマンに胸が躍った。

正本堂が幾世紀を越えて、平和の殿堂として存在し続けることを、誰もが確信していたのである。

正本堂の耐久性について、構造設計担当者の恩師である東大の坪井善勝名誉教授は、こんなエピソードを紹介している。

1971年10月、日本で行われたIASS国際シェル会議に出席した折のことである。鉄骨構造の権威である、イギリスのマコースキー教授と、正本堂の技術的な問題について話し合った際、ある新聞記者が「この建物は何年ぐらいもつと考えるか」と尋ねた。すると、マコースキー教授は「1万年」と答えたというのだ。

坪井名誉教授は記している。「この建物がマコースキーの言う耐用年数を期待することは我々構造設計者の能力の限界を超えたことである。すなわちいつまでも我々の次の時代また次の時代、その次の時代・・・の人びとが大石寺正本堂を大切に守るかどうかによって耐用年数は決定する」

円融閣いっぱいに掲げられている大緞帳の「閉幕式」である。落成の式典はすべて終了した。伸一は「閉幕式」を終えると、その足で戸田城聖の墓に向かった。一刻も早く、一切が無事に終わったことを、報告したかったのである。

正本堂建立の喜びは日本列島の津々浦々に広がっていた。全国各地で正本堂落慶記念ブロック座談会が、盛大に開催されたのである。

正本堂落成慶讃大法要の一連の儀式を終えた総本山では、記念登山会が始まり、連日、登山会参加者で賑わっていた。山本伸一は、しばらくは総本山にあって、各地から集って来るメンバーの激励に、日々、全力を傾けていた。

伸一は学会員の姿を見れば駆け寄り、全精魂を込めて激励した。輸送班の青年とは、一緒にカメラに納まり、抱きかかえるようにして握手を交わした。

「広布第二章」の伸一の戦いは、正本堂を訪れる同志への、生命を揺さぶるような励ましから始まったのである。完成した正本堂は、全信徒の誇りであった。

民衆の力によって築かれた、民衆のための荘厳な正本堂を見て、日蓮大聖人の仏法への理解を深めていった各界の指導者や学識者も少なくない。

ところが、落成からまだ26年にも満たない1998年(平成10年)の6月、なんと、その正本堂の解体が始まったのである。

この暴虐の破壊者は、日蓮正宗総本山代67世の法主を名乗る阿部日顕であった。

800万信徒の赤誠を踏みにじり、大聖人御遺命の「本門寺の戒壇」たるべき大殿堂を破壊するという大暴挙である。大聖人の法門に対する大変な叛逆である。御聖訓には「謗法と申すは違背の義なり」と厳しく仰せである。

さらに、日顕は、師の日達法主にも背き、その指南をも覆したのだ。正本堂の解体は「世界の宗教上及び文化上の遺産を甚だしく傷つけること」だと、海外の識者も強く抗議した。

日顕の常軌を逸した、この蛮行の淵源には、伸一と会員を離間させ、会員を信者として奪い取ろうとする悪辣な陰謀があった。いわゆる「C作戦(Cはカットの意)」である。

1990年の年末、突然、宗門は宗規の改正を口実にして、総講頭であった伸一をはじめ、大講頭らを一方的に、事実上、解任処分にした。「C作戦」が実行に移されたのだ。


太字は 『新・人間革命』第16巻より 抜粋