『新・人間革命』第15巻 開花の章 365P~ 

第二回のカーニバルが行われた翌日、全国に先駆け、三浦市に地域長制度が設けられることが発表された。地域長は、市などの単位で、その特色を生かしながら、地域広布を考えていくための中心者である。三崎を地域建設のモデルにしたいとの思いから、伸一が提案したものであった。

初代の地域長に任命になった西崎厳太は、高知県の出身で戦争中は、志願兵として、国に命を捧げたが、戦後、激変する社会に生きる希望も目的も見いだせず、自暴自棄になり、三崎でマグロ漁船に乗った。

同僚の学会員に話を聞かされていたが、耳を貸さず、怒鳴ったり、居留守をつかったが、追い返しても来る学会員に、信心をすれば、もう来なくなるだろうと、学会に入る。

しかし、入会すると勤行だ、折伏だ、教学だとますますひんぱんに訪ねてくるようになり、言われるままに、行動するうちに、持病の扁桃腺の腫れが治まり、痛みが消えていることに気づく。信じられなかったが、実際に功徳の実感を得て、本格的に信心に励むことにした。

仕事で莫大な借金を抱えてしまうが、創価学会員であるという誇りが、夜逃げを思いとどまらせた。新しい商売を始め、必死で働き、祈り、知恵を絞った。しばらくすると、周辺にどんどん住宅が建ち、商売が繁盛し、10年足らずで、莫大な借金を完済できた。見事に再起した西崎は、以前よりも信用を増していった。

伸一は、西崎に「地域長は、地域広布を推進し、人びとを結ぶ”友好の名士”です。皆を幸福にする責任をもつ”幸福の市長”です」と声をかけた。西崎は、地域の人びとへの恩返しのつもりで、この地に人間共和の楽土を築こうと、心に誓っていた。

三崎カーニバルは、その後も回を重ね、地域興隆の新しい道を開いていった。このころから、学会の青年たちは、全国各地で、自分たちは地域のために何ができるかを考え、自主的に、さまざまな催しや運動を展開していった。

夜回りや、自然保護の守る会、地域の清掃や環境整備、緑化運動の推進、伝統文化を守る運動などに立ち上がった。

それが地域に定着し、実りをもたらすには、長い歳月を必要とする。まさに持続の戦いである。青年たちは、”自分たちの地域は私たちが守る。この地域を必ず繁栄させてみせる。それが、仏法を持った者の使命だ”との決意に燃えていた。

地道に粘り強く、社会への貢献を重ねていった。その姿を通して、多くの地域で、学会への理解が深まり、皆が共感と称賛を寄せるようになっていったのである。

1971年(昭和46年)夏期講習会が行われ、合計13期にわたり、10万人が参加し、大石寺で盛大に開催された。

高等部の夏期講習会が行われていた、8月5日、大型の台風19号が北上し、死者や負傷者が続出し、床上浸水などの被害も広がっていた。

午後6時ごろ、伸一のもとに、近くの朝霧高原でボーイスカウトの世界ジャンボリーが行われていて、台風で危険なので、参加者6千人ほど、非難させてもらえないかとの要請が入る。

総本山には、7千人の高等部員がおり、どの宿坊もいっぱいである。伸一は、間髪入れずに、受け入れを表明、大講堂や、大化城を開放するよう宗務院と連絡を取る。

宗務院では、ジャンボリーの運営本部から何かあった時の緊急避難先にしてほしいという話があったと言うが、その話は、学会には、連絡されていなかった。宗門の渉外部長は「あとは任せますので、学会の方で責任をもってやってください」と言って電話を切った。

登山部長の平原は、すぐに富士宮の市長に連絡を取り、受け入れを告げた。避難者の受け入れが決まると、伸一は矢継ぎ早に支持をしたあと、車で総本山の売店に向かい、販売しているタオル全部を 自ら購入に走った。

配慮とは、相手の立場に立ってものを考えることから始まる。そこから”かゆいところに手が届く”ような、的確な対応が生まれる。瞬間、瞬間、相手を思い、最大の誠意を尽くすなかに、人間性は輝きを放つのである。



太字は 『新・人間革命』第15巻より 抜粋

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