『新・人間革命』第15巻 開花の章 308P~
牧口の胸像の除幕式が行われた2日後の6月8日には、伸一は北海道に飛んでいた。彼は札幌の勤行会に出席し、9日には大沼に舞台を移した。大沼研修所の開所式に出席するためであった。研修所は、美しい新緑に埋まる、大沼湖畔にあった。
車で、研修所の周囲も視察する伸一。東の空から、大きな丸い月が輝いていた。伸一は、車を止め、窓を開けると、シャッターを切った。”今だ!この瞬間しかない!”
彼は、「一瞬」の大切さというものを、身に染みて感じてきた。広宣流布を進めるうえでも、生きるうえでも、その瞬間、瞬間になすべき”勝負”が必ずある。
人生と言っても、瞬間の連続である。ゆえに、「今」を勝つことが、完勝へとつながっていくのだ。御聖訓には、「命巳に一念にすぎざれば・・・」と仰せである。命は永遠だが、あるのは過去でも、未来でもなく、今の一念(一瞬の心)にすぎないーーと洞察されている。
人生の時間は限られている。「一瞬」を疎かにすることは、生命を軽んじていることに等しい。伸一は、月に向かい、夢中でシャッターを切り続けた。
後続車に乗っていた、聖教新聞の若いカメラマンが走り寄ってきて手振れをしない取り方をアドバイスしてくれた。伸一は素直に従った。
この写真が上手に撮れていたら、同志に贈りたいと思った。日夜、人びとの幸福のため、社会のために献身する同志たちと、大自然がもたらした束の間の美の感動を分かち合い、励ましを送りたかったのである。
写真で、大自然の美をとらえ、生命の賛歌を表現したいと考え、自分のテーマとしたのである。
仏法は、人間のみならず、あらゆる生き物に、いや、路傍の小石にも、一枚の草の葉にも、生命を見いだす思想である。その一つ一つの姿のなかに、宇宙の神秘と生命の妙なる法則がある。
伸一は、それらを写し取り、自然のもつ美を、生き抜く勇気を、無限の希望を、人びとに伝えたかった。そこに人間文化の光があると、彼は確信していたのである。
写真には、人びとの心の城門を大きく開き、大宇宙と交流させていく力があるというのが、伸一の確信であった。
伸一は、カメラによって、自然の美に触れ、宇宙と生命の神秘に迫ろうとしていた。彼は、これまで、多くの詩を書き、和歌や句を詠んできたが、その創作の源泉となっていたのは、友への励ましの一念であった。彼をカメラに向かわせる力となったのも、写真をもって、人間文化の旗手である同志を励まし、讃え、勇気づけたいとの、強い思いであった。
伸一は、あの時、輝く月という現象世界の奥にある、宇宙の神秘に眼を凝らしていた。心のレンズに映っていたのは、悠久なる大宇宙であった。この月の写真を代表に贈った。そして、撮影した時の思いを、率直に語っていったのである。
「”日夜、戦っている、学会員の皆様が、この月の光に照らされ、英知輝く人になってほしい。名月天子よ、わが友と見守ってくれ”との願いを込めてシャッターを切りました」青年たちは、その写真に、月光のような自分たちを包む、伸一の心を見る思いがした。
伸一にとって、月には特別な意味があった。師の戸田城聖は、アジアの人びとが求めてやまぬ幸福を月にたとえたのである。伸一は、月を見ると、戸田の雄姿が思い起こされてならなかった。
1973年(昭和48年)1月、伸一が各地で撮った月の写真のなかから16点を選び、『写真集・月
』が発刊された。非売品であったが、これが彼の最初の写真集となったのである。
ありのままの姿を写し取るなかで、仏法の『本有無作』の自然観、生命観を表現したいというのが、伸一の素朴な願望であった。それが、結果的に、日常の風景の延長にある親しみやすさを感じさせる、彼の作風となっていたのである。
牧口の胸像の除幕式が行われた2日後の6月8日には、伸一は北海道に飛んでいた。彼は札幌の勤行会に出席し、9日には大沼に舞台を移した。大沼研修所の開所式に出席するためであった。研修所は、美しい新緑に埋まる、大沼湖畔にあった。
車で、研修所の周囲も視察する伸一。東の空から、大きな丸い月が輝いていた。伸一は、車を止め、窓を開けると、シャッターを切った。”今だ!この瞬間しかない!”
彼は、「一瞬」の大切さというものを、身に染みて感じてきた。広宣流布を進めるうえでも、生きるうえでも、その瞬間、瞬間になすべき”勝負”が必ずある。
人生と言っても、瞬間の連続である。ゆえに、「今」を勝つことが、完勝へとつながっていくのだ。御聖訓には、「命巳に一念にすぎざれば・・・」と仰せである。命は永遠だが、あるのは過去でも、未来でもなく、今の一念(一瞬の心)にすぎないーーと洞察されている。
人生の時間は限られている。「一瞬」を疎かにすることは、生命を軽んじていることに等しい。伸一は、月に向かい、夢中でシャッターを切り続けた。
後続車に乗っていた、聖教新聞の若いカメラマンが走り寄ってきて手振れをしない取り方をアドバイスしてくれた。伸一は素直に従った。
この写真が上手に撮れていたら、同志に贈りたいと思った。日夜、人びとの幸福のため、社会のために献身する同志たちと、大自然がもたらした束の間の美の感動を分かち合い、励ましを送りたかったのである。
写真で、大自然の美をとらえ、生命の賛歌を表現したいと考え、自分のテーマとしたのである。
仏法は、人間のみならず、あらゆる生き物に、いや、路傍の小石にも、一枚の草の葉にも、生命を見いだす思想である。その一つ一つの姿のなかに、宇宙の神秘と生命の妙なる法則がある。
伸一は、それらを写し取り、自然のもつ美を、生き抜く勇気を、無限の希望を、人びとに伝えたかった。そこに人間文化の光があると、彼は確信していたのである。
写真には、人びとの心の城門を大きく開き、大宇宙と交流させていく力があるというのが、伸一の確信であった。
伸一は、カメラによって、自然の美に触れ、宇宙と生命の神秘に迫ろうとしていた。彼は、これまで、多くの詩を書き、和歌や句を詠んできたが、その創作の源泉となっていたのは、友への励ましの一念であった。彼をカメラに向かわせる力となったのも、写真をもって、人間文化の旗手である同志を励まし、讃え、勇気づけたいとの、強い思いであった。
伸一は、あの時、輝く月という現象世界の奥にある、宇宙の神秘に眼を凝らしていた。心のレンズに映っていたのは、悠久なる大宇宙であった。この月の写真を代表に贈った。そして、撮影した時の思いを、率直に語っていったのである。
「”日夜、戦っている、学会員の皆様が、この月の光に照らされ、英知輝く人になってほしい。名月天子よ、わが友と見守ってくれ”との願いを込めてシャッターを切りました」青年たちは、その写真に、月光のような自分たちを包む、伸一の心を見る思いがした。
伸一にとって、月には特別な意味があった。師の戸田城聖は、アジアの人びとが求めてやまぬ幸福を月にたとえたのである。伸一は、月を見ると、戸田の雄姿が思い起こされてならなかった。
1973年(昭和48年)1月、伸一が各地で撮った月の写真のなかから16点を選び、『写真集・月
』が発刊された。非売品であったが、これが彼の最初の写真集となったのである。
ありのままの姿を写し取るなかで、仏法の『本有無作』の自然観、生命観を表現したいというのが、伸一の素朴な願望であった。それが、結果的に、日常の風景の延長にある親しみやすさを感じさせる、彼の作風となっていたのである。
太字は 『新・人間革命』第15巻より 抜粋