『新・人間革命』第15巻 創価大学の章 292P~
創価大学からも 多くの学生が、交換留学生として世界の各大学に留学していった。創大生たちは、自分たちが、パイオニアなのだとの自覚で、猛勉強を重ね、培った語学力などを生かし、平和の懸け橋となっていった人も少なくない。
モスクワ大学への最初の交換留学生となった斉木いく子は、ロシア語の通訳として、活躍するようになる。彼女は、卒業後、ソ連の男性と結ばれるが、当時のソ連は自由主義国の国民との結婚には厳しく、幾つもの困難があった。
彼女は、ロシア語の通訳として、次第に頭角を現していったが、数年後、突然夫が他界した。二人の幼子を連れて、夫の故郷に遺骨を埋葬に行ったとき、創立者の山本伸一から、電報が届く。
彼女の心に、一筋の光が走った。”そうだ。すべてに意味があるのだ。私の人生は決して終わりではない。これから始まるのだ。負けるわけにはいかない”斉木は苦しむ人のため、平和のために役立ちたいと、一段と強く心に決め、そして日本屈指のロシア語通訳となっていった。
創大生には、海外の大学院に留学し、博士号を取得したメンバーも多い。一期生の矢吹は、アメリカの大学院で、博士号を取得し、後年、創価大学で教鞭をとり、さらに、オレンジ郡キャンパスの初代学長となった。
創価大学は、最も世界に開かれた大学といってよい。各国の大学の学長や総長はもとより、世界の指導者や学識者の来学も後を絶たない。
ゴルバチョフ元ソ連大統領、キッシンジャー元米国務長官、ローマクラブのホフライトネル会長、平和学者のガルトゥング博士などもキャンパスを訪問、賛辞を寄せている。
年ごとに、学部や学科なども拡充されていった。1975年(昭和51年)には、大学院を開設。翌年には、経営学部経営学科、教育学部教育学科・児童教育学科が設けられた。この年には、念願であった通信教育部が開設され、年齢、居住地等に関係なく、学びの場、生涯学習の道が開かれたのである。
85年には、創価女子短期大学が開学。88年には、文学部に人文学科、90年に日本語日本文学科と外国語学科、91年には工学部がスタート。2004年には、司法制度改革に呼応し、新たな法曹養成のための法科大学院が開学。
アメリカにあっては、87年に創価大学のロサンゼルス・キャンパスがオープン。その後アメリカ創価大学(SUA)へと発展し、94年には大学院を開学。2001年には、オレンジ郡キャンパスがオープンし、アメリカ創価大学はリベラルアーツ・カレッジ(教養大学)として、船出した。
教育の道は、永遠なる開拓である。この世に不幸がある限り、教育開拓のクワを振るう手を絶対に休めてはならない。不幸の克服こそ教育の真実の目的であり、使命であるからだ。
人間の一生は、あまりにも短い。その人間が未来のためになせる最も尊い作業は、次代を創造する人を育て、人を残すことである。
山本伸一は、国家や民族、イデオロギーの枠を超え、世界市民として人類益のために立ち上がる、新しき平和のリーダーをつくらねばならぬと思ってきた。
また、民衆一人ひとりの幸福を願い、民衆に奉仕ゆく、人間主義のリーダーを育成しなければならぬと決意してきた。それゆえに彼は、学校建設に踏み切ったのだ。
創大出身者がどうなるか。創価大学がどうなっていくかーーそれこそが自身の人生の総決算であると、彼は考えていた。教育という大樹は、一朝一夕には育たない。長い歳月を必要とする。
彼は、創大生の成長を祈り念じ、30年、50年、百年先を思い描きながら、走りに走った。
大学開学以来、既に30余年が過ぎた。女子短大、通信教育を含め、6万人近い創大生が社会に巣立っていった。(2005年現在)
伸一が手塩にかけ、命を削る思いで育んだ人材の樹木は今、しっかりと根を張り、青々と葉を茂らせたのだ。
”伸びよ、伸びよ、創価の大樹よ!永遠なれ、わが創価大学よ!私は、命の尽きる時まで、創大生のために、断じて道を開き続ける!教育の勝利こそ、人間の勝利であるからだ”
<創価大学の章 終了>
モスクワ大学への最初の交換留学生となった斉木いく子は、ロシア語の通訳として、活躍するようになる。彼女は、卒業後、ソ連の男性と結ばれるが、当時のソ連は自由主義国の国民との結婚には厳しく、幾つもの困難があった。
彼女は、ロシア語の通訳として、次第に頭角を現していったが、数年後、突然夫が他界した。二人の幼子を連れて、夫の故郷に遺骨を埋葬に行ったとき、創立者の山本伸一から、電報が届く。
彼女の心に、一筋の光が走った。”そうだ。すべてに意味があるのだ。私の人生は決して終わりではない。これから始まるのだ。負けるわけにはいかない”斉木は苦しむ人のため、平和のために役立ちたいと、一段と強く心に決め、そして日本屈指のロシア語通訳となっていった。
創大生には、海外の大学院に留学し、博士号を取得したメンバーも多い。一期生の矢吹は、アメリカの大学院で、博士号を取得し、後年、創価大学で教鞭をとり、さらに、オレンジ郡キャンパスの初代学長となった。
創価大学は、最も世界に開かれた大学といってよい。各国の大学の学長や総長はもとより、世界の指導者や学識者の来学も後を絶たない。
ゴルバチョフ元ソ連大統領、キッシンジャー元米国務長官、ローマクラブのホフライトネル会長、平和学者のガルトゥング博士などもキャンパスを訪問、賛辞を寄せている。
年ごとに、学部や学科なども拡充されていった。1975年(昭和51年)には、大学院を開設。翌年には、経営学部経営学科、教育学部教育学科・児童教育学科が設けられた。この年には、念願であった通信教育部が開設され、年齢、居住地等に関係なく、学びの場、生涯学習の道が開かれたのである。
85年には、創価女子短期大学が開学。88年には、文学部に人文学科、90年に日本語日本文学科と外国語学科、91年には工学部がスタート。2004年には、司法制度改革に呼応し、新たな法曹養成のための法科大学院が開学。
アメリカにあっては、87年に創価大学のロサンゼルス・キャンパスがオープン。その後アメリカ創価大学(SUA)へと発展し、94年には大学院を開学。2001年には、オレンジ郡キャンパスがオープンし、アメリカ創価大学はリベラルアーツ・カレッジ(教養大学)として、船出した。
教育の道は、永遠なる開拓である。この世に不幸がある限り、教育開拓のクワを振るう手を絶対に休めてはならない。不幸の克服こそ教育の真実の目的であり、使命であるからだ。
人間の一生は、あまりにも短い。その人間が未来のためになせる最も尊い作業は、次代を創造する人を育て、人を残すことである。
山本伸一は、国家や民族、イデオロギーの枠を超え、世界市民として人類益のために立ち上がる、新しき平和のリーダーをつくらねばならぬと思ってきた。
また、民衆一人ひとりの幸福を願い、民衆に奉仕ゆく、人間主義のリーダーを育成しなければならぬと決意してきた。それゆえに彼は、学校建設に踏み切ったのだ。
創大出身者がどうなるか。創価大学がどうなっていくかーーそれこそが自身の人生の総決算であると、彼は考えていた。教育という大樹は、一朝一夕には育たない。長い歳月を必要とする。
彼は、創大生の成長を祈り念じ、30年、50年、百年先を思い描きながら、走りに走った。
大学開学以来、既に30余年が過ぎた。女子短大、通信教育を含め、6万人近い創大生が社会に巣立っていった。(2005年現在)
伸一が手塩にかけ、命を削る思いで育んだ人材の樹木は今、しっかりと根を張り、青々と葉を茂らせたのだ。
”伸びよ、伸びよ、創価の大樹よ!永遠なれ、わが創価大学よ!私は、命の尽きる時まで、創大生のために、断じて道を開き続ける!教育の勝利こそ、人間の勝利であるからだ”
<創価大学の章 終了>
太字は 『新・人間革命』第15巻より 抜粋