『新・人間革命』第13巻 光城の章 P199~

1968年11月、山本伸一は、奄美空港に降り立った。5年ぶり2度目の訪問であった。奄美大島会館へ向かう車中、前年に起きた、学会員への大々的な弾圧事件のことを訪ねた。一応の解決はみたが、学会への偏見は、根強いものがあるとの報告に、伸一は「誤解が晴れ、偏見が払しょくされるには、長い年月が必要です。何があっても、粘り強く、がんばりぬいていくしかない。」

「こうした難が起こったということは、奄美の同志の信心も、いよいよ本物になったということです。あの事件は、奄美広布の飛躍台なんです。」
と話し、車中、静かに題目を唱え、深く祈りを捧げた。

弘教の波が広がったのは、村の出身者である富岡トキノが福岡から帰って来てからであった。彼女は、父が決めた相手と結婚し、男の子を設けるがその夫に妻子がいることが発覚し、子どもを連れ、家を飛び出し、神戸で再婚した。奄美に帰っていた父親から、家の跡取りが必要と息子を取り上げられたが、新しい夫の間に娘が誕生し、幸せを手に入れたと思った矢先夫が結核で他界。店も火事になり、従業員に店の鐘を持ち逃げされるなど、失意のどん底に叩き落された。

そんななかで、学会員に出会い「宿命転換」の仏法の話を聞き、入会する。トキノは、結核に侵されていたが、折伏に励み、相手に池に突き落とされたこともあったが、微動だにせず学会活動に励むなか、幾つもの体験をつかみ、病も克服した。

そして、故郷の村に帰り、離れて暮らしていた息子とも一緒に信心に励むようになる。集落二百数十軒の家を、くまなく折伏してあるくが、土俗信仰の根強い地域であり、人びとの反発は強かった。さらに、学会員が神社の修復の寄付を拒んだことから大騒ぎになり、集落の人たちは、彼女たち一家を村八分にする取り決めを行った。

店では、何も売ってくれなくなり、祭りの日には神輿を家にぶつけられ、仕事も断られ、収入源も断たれてしまった。娘は学校でいじめられたが、母子は、明るさを失わなかった。トキノは、大聖人の御書の通りだと話し、何があっても『スットゴレ!』(なにくその意味)で頑張ろうと負けなかった。

息子は、ハブを買い取る制度ができたので、ハブを追って山の中を駆け回った。母子への圧迫は続いていたが、集落にあった神社が台風で吹き飛んだり、迫害の中心人物が、病にかかるなどの事態が生じ、村人たちは、学会の信心を悪く言うと、悪いことが起こると噂し、村八分は次第に解消されていった。

しかし、富岡母子に対する、この村八分は、その後に起こる迫害事件のほんの序章にすぎなかった。

初夏のある日、トキノが20人ほどのメンバーに御書講義をしているところに、村会議員で、学会を誹謗していた男が、酒に酔って入ってきた。男は、御書の文に難癖をつけ、トキノの手をつかみねじり上げ、顔面を殴打した。

男は、今度の選挙に公明政治連盟から候補者が出ることを知り、「俺にも票を回せ!」と叫んだ。男が暴れ出すことを心配し、皆が題目を唱え始めると、男は逃げるように帰っていった。
トキノは、「これで宿命転換ができると思う」とますます元気になっていた。

島では、選挙のたびに、そうめんや焼酎などを配り、投票依頼をするといった買収行為が後をたたなかった。8月30日に投票が行われると公政連の候補者は 1位で当選した。この選挙で、苦戦した現職議員や落選した候補者は、学会に見当ちがいな恨みをいだいた。そして、村の一、二の集落で、学会員が村八分にされるなどの事件が起こっている。


太字は 『新・人間革命』第13巻より 抜粋