『新・人間革命』第13巻 北斗の章 P104~
1967年(昭和43年)9月13日、山本伸一は、北海道の旭川へ飛んだ。日本最北端の街、稚内へ向かうためであった。当時は、稚内への定期便はまだなかった。伸一は、空路、札幌を経由して、旭川まで行き、翌日列車で、稚内に行くことにしていた。
旭川の同志たちは、今回、旭川での会合等の出席はないと伝えられていたが、"一目でもお会いしたい"と、学会が寄進した大法寺に集まり、唱題会を行っていた。伸一は、「皆が、私が来るのを待っているのだろう」と激励に行くと言い出した。
同行の幹部は、伸一が体調を崩して、発熱していることに加え、原稿執筆などの時間がなくなるとその分睡眠を削ることになると心配していたが、伸一は、「次に旭川に来るのは、いつになるかわからない」と勇んで会場に向かった。
彼は、常に「臨終只今にあり」と、自らに言い聞かせ、人との出会いの場では、いつも「一期一会」の思いで、命を振り絞るようにして励ました。
大法寺には、忘れえぬ思い出があった。戸田城聖が亡くなった翌年、1月、旭川を初訪問した伸一。有名大学出身の要領のいい幹部が「もっと暖かい時に行かれたらいいのに」とあきれたように言った時、伸一は、厳しい口調で「厳寒の季節だからこそ、最も寒い所に行くんです。そうでなければ、そこで戦う同志の苦労はわからない。幹部が率先して、一番困難なところにぶつかっていくんです。法華経は"冬の信心"ではないですか!」
信心は要領ではない。最も厳しい所に身を置き、泣くような思いで戦い抜いてこそ、本当の成長があり、初めて自身の宿命の転換も可能となる。さらに、その姿に触発され、同志も立ち上がるのである。
旭川の大法寺では、御書講義が行われた。会場は満員であり、外にも200人ほどの青年があふれていた。途中から雪が降り始めたが、青年たちは、外で立ったまま、開け放たれた窓に向かって、耳を澄まし、講義を聴いた。
会場の屋根の上に積もっていた雪が崩れ落ち、何人かの男子部員の頭上を直撃し、頭から雪をかぶり、まるで雪だるまのようになったが、彼らは、まったくたじろがず、御書の上の雪を払うと、何事もなかったかのように講義に聴き入っていた。そこには、"剣豪の修行"のごとき、峻厳さがあった。
伸一は、4たび旭川の大地を踏んで、大法寺で勤行した。唱題が終わると、伸一は、「"学会の同志の皆さんを幸せにしたい。また、皆さんの子どもさんに幸福になってもらいたい"との一念で今日まで来ました。」「これからも一生涯、最後の死の瞬間まで、私は皆さんの幸せを願い、何千万遍と、題目を送り続けていきます」と語った。
「世間の繁栄は相対的なものであり、諸行無常です。では、永遠の繁栄と幸福は、どうすれば得られるのか。それは、わが生命の宮殿を開き、自身の境涯を高めていく以外にありません。それには、広宣流布という大誓願に生き抜いていくことです」
日蓮仏法の最たる特徴は、世界の広宣流布を指標に掲げ、その実践をといていることにある。「広宣流布の宗教」ゆえに日蓮大聖人は、自行化他にわたる仏道修行、すなわち、唱題とともに修行の柱として折伏・弘教を打ち立てているのだ。
では、なぜ大聖人は弘教を叫ばれたのか。衆生自身が大聖人と同じく広宣流布を誓願し、弘教に励みゆくなかにこそ、一生成仏の大道があるからだ。
草創期のメンバーは、入会し、勤行を習うと同時に、先輩について弘教に歩いた。皆、借金をかかえ、家族の誰かが病苦に悩み、家では諍いが絶えないような状態のなかでの活動である。弘教といっても、最初は、何を、どう話していけばよいのか、全くわからなかった。ただ、相槌を打つのが精いっぱいであった。
それでも、活動に励むと、全身に新しい力がみなぎり、希望が感じられた。広宣流布の尊き使命に目覚めた同志は、貧しき友の家にも、社会的に立派な地位や肩書をもつ人の豪邸にも、勇んで足を運び、喜々として、仏法を語った。
太字は 『新・人間革命』第13巻より 抜粋
1967年(昭和43年)9月13日、山本伸一は、北海道の旭川へ飛んだ。日本最北端の街、稚内へ向かうためであった。当時は、稚内への定期便はまだなかった。伸一は、空路、札幌を経由して、旭川まで行き、翌日列車で、稚内に行くことにしていた。
旭川の同志たちは、今回、旭川での会合等の出席はないと伝えられていたが、"一目でもお会いしたい"と、学会が寄進した大法寺に集まり、唱題会を行っていた。伸一は、「皆が、私が来るのを待っているのだろう」と激励に行くと言い出した。
同行の幹部は、伸一が体調を崩して、発熱していることに加え、原稿執筆などの時間がなくなるとその分睡眠を削ることになると心配していたが、伸一は、「次に旭川に来るのは、いつになるかわからない」と勇んで会場に向かった。
彼は、常に「臨終只今にあり」と、自らに言い聞かせ、人との出会いの場では、いつも「一期一会」の思いで、命を振り絞るようにして励ました。
大法寺には、忘れえぬ思い出があった。戸田城聖が亡くなった翌年、1月、旭川を初訪問した伸一。有名大学出身の要領のいい幹部が「もっと暖かい時に行かれたらいいのに」とあきれたように言った時、伸一は、厳しい口調で「厳寒の季節だからこそ、最も寒い所に行くんです。そうでなければ、そこで戦う同志の苦労はわからない。幹部が率先して、一番困難なところにぶつかっていくんです。法華経は"冬の信心"ではないですか!」
信心は要領ではない。最も厳しい所に身を置き、泣くような思いで戦い抜いてこそ、本当の成長があり、初めて自身の宿命の転換も可能となる。さらに、その姿に触発され、同志も立ち上がるのである。
旭川の大法寺では、御書講義が行われた。会場は満員であり、外にも200人ほどの青年があふれていた。途中から雪が降り始めたが、青年たちは、外で立ったまま、開け放たれた窓に向かって、耳を澄まし、講義を聴いた。
会場の屋根の上に積もっていた雪が崩れ落ち、何人かの男子部員の頭上を直撃し、頭から雪をかぶり、まるで雪だるまのようになったが、彼らは、まったくたじろがず、御書の上の雪を払うと、何事もなかったかのように講義に聴き入っていた。そこには、"剣豪の修行"のごとき、峻厳さがあった。
伸一は、4たび旭川の大地を踏んで、大法寺で勤行した。唱題が終わると、伸一は、「"学会の同志の皆さんを幸せにしたい。また、皆さんの子どもさんに幸福になってもらいたい"との一念で今日まで来ました。」「これからも一生涯、最後の死の瞬間まで、私は皆さんの幸せを願い、何千万遍と、題目を送り続けていきます」と語った。
「世間の繁栄は相対的なものであり、諸行無常です。では、永遠の繁栄と幸福は、どうすれば得られるのか。それは、わが生命の宮殿を開き、自身の境涯を高めていく以外にありません。それには、広宣流布という大誓願に生き抜いていくことです」
日蓮仏法の最たる特徴は、世界の広宣流布を指標に掲げ、その実践をといていることにある。「広宣流布の宗教」ゆえに日蓮大聖人は、自行化他にわたる仏道修行、すなわち、唱題とともに修行の柱として折伏・弘教を打ち立てているのだ。
では、なぜ大聖人は弘教を叫ばれたのか。衆生自身が大聖人と同じく広宣流布を誓願し、弘教に励みゆくなかにこそ、一生成仏の大道があるからだ。
草創期のメンバーは、入会し、勤行を習うと同時に、先輩について弘教に歩いた。皆、借金をかかえ、家族の誰かが病苦に悩み、家では諍いが絶えないような状態のなかでの活動である。弘教といっても、最初は、何を、どう話していけばよいのか、全くわからなかった。ただ、相槌を打つのが精いっぱいであった。
それでも、活動に励むと、全身に新しい力がみなぎり、希望が感じられた。広宣流布の尊き使命に目覚めた同志は、貧しき友の家にも、社会的に立派な地位や肩書をもつ人の豪邸にも、勇んで足を運び、喜々として、仏法を語った。
太字は 『新・人間革命』第13巻より 抜粋