『新・人間革命』第12巻 栄光の章 P324~
教職員の選考は最終段階を迎えていた。生徒にとって、最も重要な教育環境は、建物でも、自然環境でもない。教師である。ゆえに、教師の選考には、特に力が入れられ、厳選されたのである。
教職員の選考は最終段階を迎えていた。生徒にとって、最も重要な教育環境は、建物でも、自然環境でもない。教師である。ゆえに、教師の選考には、特に力が入れられ、厳選されたのである。
選考にあたるメンバーに、山本伸一は訴え続けてきた。「教職員を大事にすることを、創価学園の伝統にしていってもらいたい。教育といっても、結局は、教育者によって、決まってしまうからです。」
開校にあたって、伸一は、教職員の代表と懇談の機会をもち、みんなで、力を合わせ、日本一の学校をつくろうと訴えた。
中学の志願者は、200人の募集に対し、800人近くに達し、高校の募集300人対し、1500人近くが出願した。合格者の自宅通学が困難な地域からの合格者は、予想をはるかに超え、寮に入ることができない80人ほどの下宿探しに奔走した。
なかには、学会への偏見と誤解から「創価学園」と聞いただけで、「学会の幹部の養成学校ですか」と尋ねる人もいた。一軒、一軒下宿先を開拓し、3月上旬には、すべて確保することができた。
入学式を終えた新入生と父母たちは、創価学園の正面ロータリーで伸一の到着を待ち、碑の序幕を行った。「栄光橋」と名付けた玉川上水に架かる橋のテープカットを行い、橋の意義を生徒たちに話した。
牧口常三郎と戸田城聖も、戸田と山本伸一の間にも、28歳ほどの年齢の隔たりがある。今、伸一は、40歳であり、この生徒たちとは、ちょうど同じくらいの年の差がある。彼は、世界の平和の実現のために、自分の後に続いてくれるであろう一期生との年齢差に、不思議な感慨を覚えた。
また、歴史を振り返れば、かのプラトンが、師のソクラテスの志を受け継ぎ、学園アカデメイアを創立したのも、40歳といわれる。伸一は、人生の最後の事業と定めた教育への挑戦を、今、この一期生とともに始めたことを思うと、闘志が沸々と込み上げてくるのであった。
午後も、「青年と鷲」の像の除幕式に臨んだ。伸一は、生徒たちに、「鷲は、どこまでも力強く、飛んでいく。空飛ぶ者の王です。皆さんも、鷲のように強く、野性的であってください。そして、英知を磨き、たくましい信念をもって、理想に向かって飛翔し、日本の、いな、世界の平和のために、つくしていただきたいんです。」
「青春時代を生きるうえで大事なことは、自分の弱さに負けたり、引きずられたりしないで、自分に挑戦していくことなんです。自分を制し、自分に打ち勝つことが、いっさいに勝利していく要諦であることを、わすれないでください」
若き純粋なる魂に、真実の人間の道を伝え抜かんと、彼は自らの生命を燃え上がらせ、真剣勝負で臨んでいた。
次に寮へ行き、寮長や 寮生の代表と懇談した。「君たちが開拓者となって、伝統をつくり、誉れの歴史をつくるんだ。君たちの手で、力をあわせて、この栄光寮を、日本一、世界一の寮にしていってほしい。」
伸一は、寮生たちを、力の限り抱き締めたい思いにかられた。「これからは、私が君たちの親代わりだ。みんな、宝のように大事な私の子どもだよ」
この日、新しい歴史の扉が開かれ、創価学園の建設の歩みが、晴れやかに開始されたのだ。それは、伸一にとっても、生涯の事業となる教育という大山への、本格的な登攀の開始であった。
以来、創価学園のことが、山本伸一の頭から離れることはなかった。折に触れ、さまざまなかたちで、学園生への励ましが続けられた。
太字は 『新・人間革命』第12巻より 抜粋
開校にあたって、伸一は、教職員の代表と懇談の機会をもち、みんなで、力を合わせ、日本一の学校をつくろうと訴えた。
中学の志願者は、200人の募集に対し、800人近くに達し、高校の募集300人対し、1500人近くが出願した。合格者の自宅通学が困難な地域からの合格者は、予想をはるかに超え、寮に入ることができない80人ほどの下宿探しに奔走した。
なかには、学会への偏見と誤解から「創価学園」と聞いただけで、「学会の幹部の養成学校ですか」と尋ねる人もいた。一軒、一軒下宿先を開拓し、3月上旬には、すべて確保することができた。
入学式を終えた新入生と父母たちは、創価学園の正面ロータリーで伸一の到着を待ち、碑の序幕を行った。「栄光橋」と名付けた玉川上水に架かる橋のテープカットを行い、橋の意義を生徒たちに話した。
牧口常三郎と戸田城聖も、戸田と山本伸一の間にも、28歳ほどの年齢の隔たりがある。今、伸一は、40歳であり、この生徒たちとは、ちょうど同じくらいの年の差がある。彼は、世界の平和の実現のために、自分の後に続いてくれるであろう一期生との年齢差に、不思議な感慨を覚えた。
また、歴史を振り返れば、かのプラトンが、師のソクラテスの志を受け継ぎ、学園アカデメイアを創立したのも、40歳といわれる。伸一は、人生の最後の事業と定めた教育への挑戦を、今、この一期生とともに始めたことを思うと、闘志が沸々と込み上げてくるのであった。
午後も、「青年と鷲」の像の除幕式に臨んだ。伸一は、生徒たちに、「鷲は、どこまでも力強く、飛んでいく。空飛ぶ者の王です。皆さんも、鷲のように強く、野性的であってください。そして、英知を磨き、たくましい信念をもって、理想に向かって飛翔し、日本の、いな、世界の平和のために、つくしていただきたいんです。」
「青春時代を生きるうえで大事なことは、自分の弱さに負けたり、引きずられたりしないで、自分に挑戦していくことなんです。自分を制し、自分に打ち勝つことが、いっさいに勝利していく要諦であることを、わすれないでください」
若き純粋なる魂に、真実の人間の道を伝え抜かんと、彼は自らの生命を燃え上がらせ、真剣勝負で臨んでいた。
次に寮へ行き、寮長や 寮生の代表と懇談した。「君たちが開拓者となって、伝統をつくり、誉れの歴史をつくるんだ。君たちの手で、力をあわせて、この栄光寮を、日本一、世界一の寮にしていってほしい。」
伸一は、寮生たちを、力の限り抱き締めたい思いにかられた。「これからは、私が君たちの親代わりだ。みんな、宝のように大事な私の子どもだよ」
この日、新しい歴史の扉が開かれ、創価学園の建設の歩みが、晴れやかに開始されたのだ。それは、伸一にとっても、生涯の事業となる教育という大山への、本格的な登攀の開始であった。
以来、創価学園のことが、山本伸一の頭から離れることはなかった。折に触れ、さまざまなかたちで、学園生への励ましが続けられた。
太字は 『新・人間革命』第12巻より 抜粋