『新・人間革命』第11巻 躍進の章 P368~
会合終了後、男女青年部と懇談をもった伸一は、青年たちの励ましの意味を込め、一緒に卓球をした。女子部のメンバーは、急遽『佐渡おけさ』を見てもらいたいと話し合い、旅館の浴衣を借りて、踊りの上手な従業員に加わってもらい、踊ったが、どこかぎこちない踊りであったが、一生懸命披露した。
伸一には、何よりもその真心がうれしかった。途中から加わった同行の幹部の一人が、「旅館のショーですか。従業員が踊っていたんですかね。あまり上手くなかったな。」と女子部の真心を踏みにじる、横柄な響きがあった。
伸一は、憮然とした顔で「旅館の方も踊ってくださったが、あとの三人は、ぼくの妹だよ」と言った。そのやり取りを聞いていた女子部員は、胸を詰まらせた。「妹」という言葉に、伸一のやさしさと期待を感じとったのである。
伸一は、記念にピアノ演奏をプレゼントすると言って、皆で“大楠公”の曲を弾いた。この歌は、戸田城聖が、生前、よく青年たちに歌わせた歌であった。戸田は、この歌に広宣流布の指定の精神を託して、青年たちに歌わせ、歌い方についても、厳しく指導してきた。
殉難を覚悟で広宣流布に生き抜く後継の獅子を、鍛え育もうと、戸田は必死であったのである。「君たちも、一にも早く大成長し、立派な指導者になって、広布のため、社会のために、献身していくんだぞ。いいな!」
伸一の奏でる“大楠公”の曲に合わせて合唱していると、戸田の姿が目に浮かび、胸が熱くなるのであった。伸一は、歌い終わった青年たちを励ますように、大きな声で言った。「早く生い立てーーこれが戸田先生の私たちへの願いであり、期待であった。佐渡のみんなも、その心で立ち上がり、大成長していくんだ。私は、もう立ち上がったよ。君たちも早く立とうよ」
東京に帰る日、船をバックに見送りにきた同志と記念写真を撮った伸一は、新潟の幹部に、「佐渡の男子部は、両津の埠頭に、百人の男子部員の結集をしてみてはどうか」と提案。それができれば、佐渡の広宣流布の基盤がつくられるし、未来は盤石になると話した。
伸一は、この佐渡の地での、日蓮大聖人のまさに師子王のごとき戦いに思いをめぐらせた。
日蓮が、佐渡の松ヶ崎に着いたのは、文永八年(1271年)10月28日のことである。10月下旬といっても、旧暦であり、既に季節は初冬であった。配所の塚原に到着したのは、11月1日であった。塚原は、佐渡島のほぼ中央に位置し、そこは、死人を捨てる場所であり、弔いのために里人が建てた、四本柱の荒れた堂があった。三昧堂である。ここが日蓮の配流の場所である。
この三昧堂で、彼は日興とともに、極寒の佐渡の冬を過ごした。日蓮は齢50であった。日蓮の生涯は迫害に次ぐ迫害であったことはよく知られている。そのなかでも、竜の口の首の座から佐渡流罪に至る迫害は、最も過酷な大法難であった。
この法難を引き起こしたそもそもの要因は、文応元年(1260年)7月16日、「立正安国論」をもって、時の最高権力者である北条時頼を諫暁したことにあったといえる。
日蓮は、大風、洪水、飢饉、疫病、地震と、相次ぐ災厄に苦しむ民衆を救わんがために、「立正安国論」の筆を執り、経文を通してその災厄の原因を明らかにしていった。すなわち、この苦悩の根本原因は、正法に背き、誤った教えを尊崇していることにあると指摘したのだ。
また、誤った教えに執着し続けるならば、まだ起こっていない三災のうちの兵革の災、すなわち、七難のうちの自界叛逆難、他国侵逼難が起こるであろうと警告した。同志討ち、内乱であり、他国に侵略されると警告したのだ。
太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋
会合終了後、男女青年部と懇談をもった伸一は、青年たちの励ましの意味を込め、一緒に卓球をした。女子部のメンバーは、急遽『佐渡おけさ』を見てもらいたいと話し合い、旅館の浴衣を借りて、踊りの上手な従業員に加わってもらい、踊ったが、どこかぎこちない踊りであったが、一生懸命披露した。
伸一には、何よりもその真心がうれしかった。途中から加わった同行の幹部の一人が、「旅館のショーですか。従業員が踊っていたんですかね。あまり上手くなかったな。」と女子部の真心を踏みにじる、横柄な響きがあった。
伸一は、憮然とした顔で「旅館の方も踊ってくださったが、あとの三人は、ぼくの妹だよ」と言った。そのやり取りを聞いていた女子部員は、胸を詰まらせた。「妹」という言葉に、伸一のやさしさと期待を感じとったのである。
伸一は、記念にピアノ演奏をプレゼントすると言って、皆で“大楠公”の曲を弾いた。この歌は、戸田城聖が、生前、よく青年たちに歌わせた歌であった。戸田は、この歌に広宣流布の指定の精神を託して、青年たちに歌わせ、歌い方についても、厳しく指導してきた。
殉難を覚悟で広宣流布に生き抜く後継の獅子を、鍛え育もうと、戸田は必死であったのである。「君たちも、一にも早く大成長し、立派な指導者になって、広布のため、社会のために、献身していくんだぞ。いいな!」
伸一の奏でる“大楠公”の曲に合わせて合唱していると、戸田の姿が目に浮かび、胸が熱くなるのであった。伸一は、歌い終わった青年たちを励ますように、大きな声で言った。「早く生い立てーーこれが戸田先生の私たちへの願いであり、期待であった。佐渡のみんなも、その心で立ち上がり、大成長していくんだ。私は、もう立ち上がったよ。君たちも早く立とうよ」
東京に帰る日、船をバックに見送りにきた同志と記念写真を撮った伸一は、新潟の幹部に、「佐渡の男子部は、両津の埠頭に、百人の男子部員の結集をしてみてはどうか」と提案。それができれば、佐渡の広宣流布の基盤がつくられるし、未来は盤石になると話した。
伸一は、この佐渡の地での、日蓮大聖人のまさに師子王のごとき戦いに思いをめぐらせた。
日蓮が、佐渡の松ヶ崎に着いたのは、文永八年(1271年)10月28日のことである。10月下旬といっても、旧暦であり、既に季節は初冬であった。配所の塚原に到着したのは、11月1日であった。塚原は、佐渡島のほぼ中央に位置し、そこは、死人を捨てる場所であり、弔いのために里人が建てた、四本柱の荒れた堂があった。三昧堂である。ここが日蓮の配流の場所である。
この三昧堂で、彼は日興とともに、極寒の佐渡の冬を過ごした。日蓮は齢50であった。日蓮の生涯は迫害に次ぐ迫害であったことはよく知られている。そのなかでも、竜の口の首の座から佐渡流罪に至る迫害は、最も過酷な大法難であった。
この法難を引き起こしたそもそもの要因は、文応元年(1260年)7月16日、「立正安国論」をもって、時の最高権力者である北条時頼を諫暁したことにあったといえる。
日蓮は、大風、洪水、飢饉、疫病、地震と、相次ぐ災厄に苦しむ民衆を救わんがために、「立正安国論」の筆を執り、経文を通してその災厄の原因を明らかにしていった。すなわち、この苦悩の根本原因は、正法に背き、誤った教えを尊崇していることにあると指摘したのだ。
また、誤った教えに執着し続けるならば、まだ起こっていない三災のうちの兵革の災、すなわち、七難のうちの自界叛逆難、他国侵逼難が起こるであろうと警告した。同志討ち、内乱であり、他国に侵略されると警告したのだ。
太字は 『新・人間革命』第11巻より 抜粋